118.やすらぎと壁
 人間にとってやすらぎの場所は絶対必要なもので、社会の緊張の中だけに生きることは出来ません。家庭もそのひとつですが実家も大きなやすらぎの場所です。あがりこんでゆっくりできる場所があることの有難さを感じます。正月に来るからといって、ご馳走を食べさせようとして、昨年末に買い物をしている母の姿を偶然見かけた時の子どもに戻ったような気持ちは心のやすらぎです。この日のために高いお肉を買ってくれていたのですが、この気持ちの込められた料理に勝るものはありません。

 福井県に行くと、北陸で二番目においしい店と看板が掲げられた洋食屋があります。二番目においしい理由は、自分の育った家庭料理が一番で、この店の味が二番というものです。どの人でもそうでしょうが、自分が育ってきた懐かしい味はどれだけ高価な店の料理よりも美味しいものです。
 僕が育った時代は未だモノが豊富にある時代ではなかったので、おもちゃやカードを保管する箱は、年に数える程だけしか行かなかった百貨店で買った品物が納められていた箱の中でも綺麗なものを活用していました。綺麗なデザインの空き箱には、子どもにとって宝物が詰まっていました。今は何一つ残っていませんが、思い出が残された家全体が宝箱のように感じます。

 人の一生とは、人生の目的とは何なのか、私には未だに分かりません。生まれて両親の愛情に育まれて大きく育った幼稚園、小学生時代。幼稚園の入園や小学校入学の時は、一体どのような気持ちで送ってくれたのでしょうか。一人で社会生活の一歩を踏みだすことの希望と不安が入り乱れていたことと思います。運動会では全て手作りのお弁当で見に来てくれたのに、参観日にはどこで見てくれているのか探していたのに、運動会や参観日に両親が来てくれることに恥ずかしさを感じたのは何時頃だったのでしょうか。

 一年生と二年生時の担任の矢川先生には迷惑を掛けましたが、毎年先生の家にお邪魔して鈴虫をいただきました。卒業するまで、毎年秋には綺麗な泣き声を家で聞くことが出来たのです。鈴虫を孵化させるのは難しくて、一度も卵から孵すことは出来なかったけれども、矢川先生は毎年沢山の鈴虫を孵化させて皆んなに分けてくれたのです。矢川先生はすごいなぁと思っていました。それだけのことではありません、幾分かお年がいかれましたが、矢川先生は今も元気に鈴虫を飼って毎年孵化させています。私が小学校のころから何十年もずっとです。私は今でも鈴虫を孵化させることは出来ないのですから、矢川先生を追い越せていないのです。今でも鈴虫の音色を聞くと小学校一年生の頃を思い出しますから、良い先生に担任してもらったと心から思っています。

 矢川先生は私達の学年を担任した後、ご主人の体調が思わしくなかったので教師を退職、その後会っていませんでしたが、平成15年市議会に出ることになった時、応援に駆けつけてくれたのです。8歳の時以来の再会でした。私の人生の基礎を作ってくれた恩師ですから、如何に小学校の担任の先生の影響は大きいのか分かります。
 長いようで短かった小学校時代。それなりの優等生だったため、毎学年で学級委員に選ばれて最終学年の6年生、生徒会に立候補したけれども三つ巴で次点だったこともありました。6年生はとても仲の良いクラスで、担任の尾崎先生には厳しさと優しさを教えていただきました。あの頃の先生は、知識を詰め込む勉強よりもどうして大人になっていくのか、そのために必要なものは何かを教えてくれたように思います。暖かい気持ちで見守ってくれたのを感じていましたから、卒業式ではいよいよ守られた環境から旅立つんだなと思ったことを覚えています。

 自我が目覚めて良心に反発を覚える中学生時代、勉強の意味や受験する意味さえも分からない時代でした。塾とかに通う時代ではなかったので、学校とクラブ活動だけの中学時代でした。
 中学三年生、そして受験、今思い返しても理由は分からないけれど、受験の時は何故か両親に反発していました。多分、決められたレールに乗ることに反発していたと思うのですが、思えば自立心の高い中学生だったのかも知れません。高校受験では全く気持ちが乗らずに昼の弁当も食べなかったことを今でも覚えています。誰にでもない反発心を持ったままだったので試験の出来は、いまいちかな、と思っていたのですが結果は不合格。予想していたような、でも恐らく合格するだろうとの気持ちが半々だったけれど、殆どの友達が合格しているという現実に直面した時、大変なことになったと思ったのです。15歳にとって、中学浪人をすることは15歳で人生の落伍者になるような真っ暗な不安がありました。
 気が進まないまま予備校を見学に行ったところ奇跡が起こったのです。県立向陽高校が定員割れとなり追試をすることになったのです。今も昔もこんなことは有り得ないことです。でも再募集は10名程度、願書提出は100名を超えるもので厳しい状況でした。けれども何故か合格するだろうと気持ちに余裕がありました。

 それは最初の入試発表で不合格となった日の午後、父親が何も言わずに私を単車の後ろに乗せて映画に連れてくれたことが原因です。厳しい父親でしたから言葉で語ることは無かったのですが、勇気付けるための映画を選んで連れてくれたのです。
 その映画は「がんばれベアーズ」で、名子役のテイタム・オニールと名優ウォルター・マッソーが主演でした。弱小少年野球チームのベアーズに女の子の投手テイタムとマッソー扮する監督がやってきます。やる気のないチームが二人の加入によって勝つための練習を始めます。目的のない練習ではなく、勝つための練習を始めたことでチームの実力が向上していきます。ベアーズはリーグ戦を勝ち進み、決勝で今まで相手にもされなかった強豪チームと戦います。勝敗は忘れましたが、多分ベアーズは全力を尽くすのですが負けたように思います。
 勝負の結果は厳しいものでしたが、勝つために努力をして全力を尽くすことが結果よりも大切だということを教えられました。

 受験の意味が分からないで全力を尽くさなかったことに対して、父は映画を通じて人生はそうじゃないよと教えてくれたのでした。人生においては目の前に次々と壁が現れます。それに立ち向かわないで壁を乗り越える目的が分かる筈もないのです。壁を越えてもその壁の意味することは容易に分かりませんが、少なくても壁を乗り越えるために全力を尽くすことが、目的を知るよりも大切なことです。
 今でも昨日のことのように思い出します。単車にまたがってヘルメットを被った瞬間、大きな父の背中、体を流れていった風、そして観た後で父が言った「小さい子でもがんばっているだろう」の一言。当時の父は45歳、これが父親から教えてもらった最大の教訓です。その年齢に近づこうとしている自分がいますが、後輩を導ける程人生を経験していないと感じています。父親は人生の大きな壁であり続けてくれる限り、どこまでも努力を続けられる気がします。いつまでも健康で、そして壁であり続けて下さい。子どもの私からの最大の願いです。
 無事、向陽高校に合格したのは言うまでもありません。新年にこんなことを思い出しました。

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