コラム
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2012/2/22
983    曖昧さ

日本人は結論を出さないという特性があります。最近は、これが良くないと言われることが多いのですが、必ずしもそうでないこともあります。曖昧で結論を出さないことが何故良いことかも知れないと思えるのか。日本の現代に至る民主主義の歴史の中にそれがあります。

分かり易いのは白か黒かをはっきりと決めて、行く道を決定することです。ところが社会には高校までの勉強のように正解はありません。正解のない答えを求めた毎日を過ごしているのですが、その中で行くべき方向を決める必要に追われています。しかし全ての出来事に正解を出して進んでいる人は少ないのです。多くの場合は、「多分、こちらで間違いがないだろう」と思ったり、「どちらでも良いのでとりあえず今日のところはこちらに決めよう」と思っているのです。中には、「絶対にこちらに違いない」と思うことや「誰が何と言おうと私の思想ではこちらの道だ」と言う人もいますが、個人レベルの問題は、それで影響は少ないとしても、公の決め事の場合は個人の導いた答えに基づいて社会が進むことは少ないのです 。

右に行くと主張する人がいれば、左に進むべきだと主張する人もいます。それも強力に主張する人がいるのです。どれだけ主張が強くても、それが社会においての正解ではありません。科学の実験で得られた答えのように、何度実行しても同じ答えが導かれるような正解は社会にはないのですから。

では正解がなく決められないことが多いのに、どうして社会は進んでいるのでしょうか。

それは曖昧さと「まぁいいか」という妥協があるからです。右と主張する人と左と主張をする人の真ん中にどちらでも良いと考えている人がいるのです。しかもかなりの人数の人がいます。極端に右や左と言う人よりもこれらの人は多数の場合が多く、しかもバランス感覚があるのです。「多分、こちらに行った方が安全かな」だとか「こちらの道に行く方が危険性はない」と無意識の中で判断できる能力があるのです。

社会は多く人が共存し生活をしている場所です。より安全な方向に、より危険を避ける方向に進むべき性質を持っています。余りにも先進的な考え方が受け入れられないのは、曖昧な人は現状を大きく転換させるような出来事には遭遇したくないと考えるからです。それが社会の進展を妨げている一面がありますが、一歩ずつ安全に歩けるような速度での進展を支持しているのです。

つまり両端の部分ではなくて、真ん中の部分を基本とした社会が作られているのです。それが社会を安定させ安全にさせている要因になっていると思えます。日本は経済では一番ではありません。先進的な取り組みにも弱い面があります。民主主義が成熟していない国だと言われることがあります。それは曖昧さと良い加減さがあるからです。

でもそれは安全で安心な国づくりに資して来た経緯があるのです。世界の中で最も豊かさを享受している国であり、最も紛争が少ない国でもあります。そんな国を作ってきたのが私達の国民性です。真ん中が緩和剤的役割を果たしているとすれば曖昧も良いのです。