コラム
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2011/2/24
867    受験

春を迎えようとするこの季節は受験シーズンです。苦くて辛い経験がある人もいると思いますが、2011年の春に向けてラストスパートをかけている受験生、最後まで頑張って下さい。

私の高校入試は昭和52年のことですから、もう34年も前のことになります。もう遠い昔の話ですが、今でも鮮明に覚えています。あの春があったので今ここに存在しているのです。高校入試の結果が少し違っていたら、いま存在している場所が違っていたことは確実です。以前のコラムにも書いたのですが、中学三年生の頃は反抗期で、親の言うことを聞かないものです。私も例外ではなかったのですが、今になって親に向かっての態度を後悔することがあります。受験は自分がするものですが、受験生本人が知らないところで親は支えてくれていたのです。

34年を経て初めて知ったのですが、高校に合格するように神社にお参りに行ってくれたり、お墓参りに行ってご先祖様にお願いをしてくれていたのです。それも一度や二度ではなくてどれだけの回数、そこにお参りに行ってくれていたのか分かりません。お百度参りがありますが、百度お願いをすると願いが通じるといものですが、それはその執念の強さが願いを現実にしてくれるものだと思います。

受験生は勉強で全力を尽くしますが、親は勉強で手伝うことはできないので、それ以外の部分で支えになってくれているのです。中学生の当時は、神頼みを信じなかったと思いますが、今になると良く分かります。神様は存在していて、神頼みはとても大切なことであることを。神様を信じる心が願いを現実化させてくれるものであり、愛情を持って誰かのことをお願いすると、それは姿を現してくれるのです。親の子どもに対する愛情に勝るものはありません。子どもが受験で苦しい時は、親も同じように苦しい思いを共有してくれているのです。受験生の親が出来ることは、勉強の隣でアレコレ言うことではなくて、そっと神社参りとお墓参りで合格をお願いすることです。40歳を超えて、さび付いた頭で高校受験の試験問題を解いて正解することはできません。子どもの勉強に関して言うのではなくて、親として子どもを支えるための行動をすることが愛情なのです。

今は子どもが知ることはなくても、やがて知る時が訪れます。34年前のことを知った私は、どれだけ親に対して感謝の気持ちを抱いたのかを言葉で表現することは、残念ですができません。「ありがとう」を何度繰り返しても追いつかない程です。

いま立場を変えて受験生の親になっています。自分のことを棚にあげて子どもに言うことはありません。直接助けることもできません。結局、できることは合格を祈ることだけなのです。しかしその祈る気持ちが何よりも愛情に溢れ、何よりも強い気持ちであるのかを受験生は知ることはありません。

34年も前から続いている愛情の深さを知って、まだまだ期待に応えていないので、もっと頑張ろうという気持ちが芽生えるように、声なき声の深さを、やがて子どもが分かる時が訪れます。愛情は愛情をつなぎます。