コラム
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2011/2/21
866    トイレの神様

トイレの神様は確かに存在しています。過去に二度、きれいなトイレのことを取り上げましたが、ここのトイレは新年を迎えてもやはり気持ち良く保たれています。迎春を彩る飾り物は、トイレを使用する人を穏やかな気持ちにさせてくれます。

神様はきれいな場所が好きだと聞くことがあります。掃除の仕事をしている方々がきれいなトイレに磨き上げてくれている恩恵を使用する私達が受けているのです。つまりきれいなトイレには神様が座っていますから、トイレを掃除していなくても使用するだけで恵みを受けられることになっているのです。

ですからトイレを使用する立場としては、きれいに使用することが最低限守りたいことです。トイレの神様が座ってくれている場所を汚すようでは、神様は逃げて他の居心地の良いトイレに移動してしまいます。折角、きれいに掃除をしてくれたトイレを、使用する人が汚してしまうと、そこに神様は存在しなくなっているのです。トイレを使用する人が恩恵を受けられる筈なのに、一人マナーを守らない人がいることによって、全体が神様に見放されてしまうのです。

それでも毎日きれいに磨いてくれる人がいる限り、トイレの神様は毎日のように訪れてくれます。トイレをきれいに使わないことを何度か繰り返している内に、トイレの神様はやがて愛想を尽かしてしまいます。そうです、トイレの神様とはトイレを掃除してくれている人の心なのです。きれいな心の人がトイレ掃除をしてくれているのです。その人の心を痛めるような行為をしてはならないのです。家庭においては自身、または家族の人がトイレ掃除をしています。家族の心がきれいなので家族は温かいのです。会社においては従業員、または掃除を仕事としている皆さんが担当してくれています。

その掃除を担当してくれている人の気持ちに神様が宿っているのです。使用する人は、その神様のいる場所を使わせてもらっていることを忘れてはならないのです。一所懸命に拭き掃除をしてくれている姿を見たら、寒い日に冷たいお水で雑巾を絞ってくれている姿を見たら、トイレを汚してはいけないと思います。トイレには掃除を担当してくれている人たちの気持ちが入っているのです。清らかな人の気持ちが神様に近い状態だと思いますから、そんな人の気持ちを大切にすべきものです。せめて汚した場合は、自分で汚した部分を拭き取るなどしたいものです。

自分の自宅のトイレはきれいにしていると思います。ビルのオーナーであれば、所有しているビルのトイレはきれいに保っている筈です。自分の会社のトイレも大切にしている筈です。なのに、他人所有のトイレや自分が働いている会社のトイレをきれいに使用できないのは何故でしょうか。

自分の心の中にも神様は宿っているから、基本的に人は正義の心を持っています。反社会的な行動には自制心が働くのはそのためです。ところが他人の神様は見えないのです。見えないものを信じない人は、他人の神様の存在が分かりません。ですから誰かが掃除をしてくれているトイレの神様が見えないので、汚しても平気なのです。

見えないものが世の中を動かしているのです。人は思ったことを実現させようと行動に移します。行動することが思いを実現させるたった一つの方法です。自分の心に潜んでいる神様にはお願いをしますが、他人の神様のことまで考えていません。

他人の神様は姿を変えて私達の前に現れています。神様はきれいな場所が好きなのです。きれいなトイレに神様がいるのはそのためです。きれいなトイレの神様とは、そのトイレを掃除してくれている人の心なのです。

私達が気持ち良くトイレを使用できているのは、他人の心をいただいているからです。他人の心を頂戴していることに感謝するのは当然のことです。一日の終わりでもきれいなトイレであったなら、翌朝、トイレ掃除を担当してくれている人の心は、明るく微笑むと思います。掃除を担当してくれている人がそんな気持ちになってくれたなら、私達の心がトイレの神様に伝わったことになります。

そうすれば、もっときれいな心をいただけますし、きれいな心をお返しできるのです。