コラム
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2011/2/4
864    現実はひとつ

私達の時代、新年の太陽のように清々しい季節を迎えたいものです。太陽の季節なのか、曇り空を選ぶのかは私達の選択にかかっています。未来は、輝く登場する日を待っています。未来への選択肢はいくつも存在しています。どれを選ぶかによって出現する未来は変わります。きれいな心で未来の選択をしたいものです。

私達の前に現れる未来はたったひとつです。ひとつの未来が現実になると、それ以外に出現する可能性のあった元未来は永遠に姿を現しません。政治も同じです。「誰が政治をやっても変わらないから」という台詞があります。大晦日の日にも、この話しをしたのですが、実は全く違います。

現実に起きて私達が確認できる元未来はひとつですから、結果として誰が政治をしても変わらないと思うのですが、もしふたつの現実を同時に見ることが出来るとしたら、選択したことによる現実の違いが分かります。分かりやすいように例え話をしました。コーヒーか紅茶を飲むかの選択の機会がありました。三人で協議してどちらを飲むのか決定します。二人がコーヒーを選び、後の一人が紅茶を選択しました。多数決の結果、三人がコーヒーを飲むことになりました。ところがいただいたコーヒーが不味かったのです。もし紅茶を選択していたら、おいしい紅茶だったかも知れないのですが、その選択をしなかったのですから、その紅茶はおいしかったのか、それとも不味かったのかは永遠に確認できないのです。

政治の結果現れる現実もそれと良く似ています。政治的決定をするに際しては、複数の選択肢がありますが、協議した結果、ひとつの選択が採択されます。その決定に対して予算化が図られ現実的な動きとなります。一般的に、私達はそれ以外の選択肢があったことも知り得ませんし、それが選択されていた場合の現実を見ることもできません。

このように、誰が権限を握るかによって現実が違ってくるのです。コーヒーと紅茶の例に戻りますが、現在のX市長であればコーヒーを飲むという選択を行いますが、もしY市長だったとしたら紅茶を選択したかも知れません。市民である私達はコーヒーを飲むという機会が示されるだけですから、紅茶を飲んでいればということは思いもしないのです。不味いコーヒーを飲まされた結果、誰が市長でも私達は不味いコーヒーを飲まされるのだから、誰が政治を行っても変わらないと思い込むのです。

仮に存在していないY市長だったら紅茶という選択肢を提供してくれたかも分かりませんし、おいしいコーヒーを提供してくれたかも知れないのです。ところが現実はひとつで、そんな「もしも」はありません。

ですから政治は誰がやっても同じと思うのではなくて、誰がするかによって現実が違ってくると思うべきなのです。そして現実とは、出番を待っている未来のことです。ですから未来を託すことのできる人を選ぶべきなのです。未来は現在への出番を待っています。

政治において、未来を託すことの出来る人を選択するのが選挙なのです。未来を感じる人に期待をして欲しいものです。