コラム
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2010/11/1
844 清掃

国の名勝指定を受けた和歌の浦地域。その中にある片男波公園の清掃活動に参加しました。予想を越える量のゴミと流木が散乱していて、「とても全て清掃できそうにない」と思いながら清掃に着手しました。しかし全員の協力によって、片男波公園の先端部分の全てのゴミと流木を取り除くことができました。最初に見た場所とは全く違う場所のように見えるほどです。

ゴミ袋にして220袋も集めました。ゴミの清掃とゴミ袋の運搬で、参加者全員が疲れてくたくたになりましたが、気持ち良く堤防に寝転がれました。青空と青い海を眺められた瞬間は生きている実感がありました。参加して皆さんも共有できた感覚です。

不思議なもので圧倒的にゴミの量を前にすると、清掃に取り掛かった最初は「出来るところまでやろう」と思うのですが、端から順にきれいになっていくと、最後までやり切ろうという気持ちに変化していきます。結局、端から端まで全員で移動しながらゴミを拾っていくことになるのです。人の感覚とは不思議なもので、汚い場所だと思うと清掃したくないのですが、きれいになり始めるとこの場所の全てをきれいに清掃しようという気持ちになるのです。ニューヨーク市を犯罪都市から再生させた、壊れた窓の理論のとおりです。

きれいにすればするほど、隅々まできれいにしようと言う気持ちになります。清掃し終えた皆さんの笑顔が充実した一日であることを証明していました。

そして不思議な感覚の第二弾。私たちで海岸のゴミを拾って全ての場所をきれいにしても、台風や荒波がやってくると、また元の状態に戻ります。波があちらこちらのゴミと流木を運んでくるのです。一般的には、本日の取り組みが全く意味のないことになります。一日費やしてきれいにしても、直ぐに元のゴミだらけの場所に変化するからです。

しかし、もし本日私たちが清掃しなかったとすれば、より大量にゴミがこの場所に積み重なることになります。壊れた窓がより壊れた状態になるのです。本日もそうですが、弁当箱の殻、ペットボトル、空き缶など、海に来た人たちが残していったものが海岸に溢れています。きたない場所であれば、もっと多くのゴミが捨てられることになります。きたない場所にはきたないものが寄ってくるからです。

ですから一人ひとりの小さな力は決して意味のないものではないのです。今日の清掃でこの海岸がきれいになったので、暫くゴミは捨てられないと思います。誰かがきれいに保つための取り組みをしなければ、人間社会はきれいに保たれないのです。

社会も同じです。良くならないかも知れないけれど、誰かが社会をきれいにするための活動を実行しなければならないのです。歯止めを掛けておかないと、人の本質として社会は楽な方に向かいます。楽な社会だと発展性はありません。そして自分が楽をすることで、自分の知らない誰かがその分の社会的責任と、社会で必要となる経費を負担してくれているのです。片男波公園にゴミを捨てた人たちは、NPO法人和歌の浦万葉薪能の会が清掃してくれると思って安心して捨てているのではないのです。結果として本日の分は、私たちが清掃していますが、人間社会のルールに反してゴミを捨てた人の無責任さの誰かが責任を取らなければならないのです。みんなが無責任でいると、少ない人数で責任を負うことになります。それでは社会が成立しなくなるのです。そんな社会は誰も望んでいないでしょう。みんなが望む社会を創りたいのに、そうならない不思議な世界です。

それは社会が大き過ぎて、自分の無責任の後始末をしなくても分からないからです。会社や家庭内、つまり事務所や家の中にゴミを撒き散らす人はいないのです。そんなことをしたら会社にいられなくなりますし、家庭はゴミ屋敷になるから自分に跳ね返ってくるからです。自分の行為の結果が直接自分に帰ってくる環境の下では、人は責任を持った行動をとります。自分の行為の結果が分かりにくい環境の下では、一般的には責任を取らなくなります。

清掃活動を通じて見えるものがありました。こちらの窓から社会を見ているようでした。