コラム
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2024/10/31
1948    台東縣の菅宮勝太郎氏

令和6年10月初旬、一緒に台湾を訪れた皆さんから、訪台の時の写真と動画を見させてもらっています。わずか数日前のことですが「とても楽しくて懐かしい」感じがしています。

台東縣の新港で出迎えてくれた陳さんから日本人「菅宮勝太郎邸」で菅宮氏のことを聴かせてもらいました。

陳さんは台東縣に日本人の菅宮勝太郎さんが関わっていることを知り、台東縣と日本の絆をつないでいます。菅宮氏は茨城県生まれ、1922年に日本から台東縣に赴任しました。その後、軍から異動通知がありましたがそれを拒否し「新港の士となる」と語り、この地に残ったのです。転勤を拒否して残った菅宮氏はインフラ整備や教育に力を注ぎ町の発展に尽くしました。

当時の台東縣は日本人がいて、本土から来ていた漢民族がその次、原住民はその下の地位に置かれていました。彼はそんなことは関係なく地元民に優しく接してくれました。しかも現状のままでは子ども達の未来が見えないので、教育を与えてくれたのです。教育を受けた子ども達は、その後、政治家になったり教育者になったりと活躍しています。教育を受けられる環境を作ってくれたことは、つまり将来を拓いてくれたのです。

日本軍の侵攻の歴史は地元にとっては辛いことも、耐えてきたことも、残酷な出来事もありましたが、全てが良いことばかりではありませんでした。しかし菅宮氏は台東縣と子ども達に将来を与えてくれたのです。菅宮氏が教育を受ける機会、将来を与えてくれたことで全てを打ち消して善い行いに変えてくれたのです。歴史は公式的には硬いものです。しかし人と人との関係や交流の中には温かい物語があります。人が築いた温かい物語が現代の日本と台湾の絆につながっているのは間違いないと思います。公式訪問での友好関係の調印も外交も絶対に必要なものですが、人と人が出会い、話をして食事をして、時間を共にして創り出す温かい物語は、公式訪問以上に将来につながる民間外交となります。

日本と台東縣の絆をつないだ菅宮氏の功績は今も台東縣に生きています。現代を生きる私達は過去の物語を継承しながら、新しく物語を創り出す必要があります。現代の物語は将来につなげる礎となるからです。これまで知らなかった菅宮勝太郎氏の物語も聴かせてもらい、日本と台湾の友好関係は歴史に残らない人達が築いてきたと感じました。いま、現代の物語を築いていかなければと思っています。

帰国後に届いた陳さんからのLINEはとても嬉しくて、少し寂しい感じがします。

「やっぱり皆に見送るで『さよなら』言うのは切なすぎるから、こんな別れの方法を選んで、本当に申し訳ございませんでした!許してくださいね。でも皆と真心で付き合って間違えないですから、一日の友達、永遠の友達です。皆との再会、楽しみに待っています!大歓迎。皆と別れる前夜、ずっと寝れなくて、別れの言葉どういう風に言ったらいいか?考え考えて、考えて、書いて、書いて、直して、直して、でも最後はやっぱり納得の文章ができなかったなあ、悔しいです。ごめん、感情が抑えられないで、今でも書きながら、涙が思わず流れました」。