コラム
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2024/9/2
1915    担任の先生がいる同窓会

「浜木綿 第70号掲載 令和5年9月1日発行」

令和5年5月のある日。「コロナ禍が開けたから4年ぶりに同窓会をしよう」と3年F組の同窓会幹事メンバー5人が集まって話し合った。僕たちが高校を卒業したのは昭和55年3月だから、実に43年が経過していることになる。

幹事メンバーで集まってビールを飲んで話していると、不思議なもので全員が18歳に戻っているのである。人生の荷物を何も持っていなかったあの頃にだ。

考えてみれば幹事の5人が過ごした年月は、わずか1年に過ぎないのである。たった一年間、同じクラスでいただけなのに、43年が過ぎても同じような価値を持ちながら、あの一年の思い出話はともかく、19歳から61歳までの人生を、まるで共に歩いたかのような経験を語り合えるのは実に不思議なことだ。同じ経験を共有していないにも関わらず共感しあえるのかどうしてだろうか。

時代の空気以外に考えられないのである。わずか1年間、同じ時代の空気を共有しただけなのに、多くの経験を分かり合える関係は極めて珍しいことだと思うのである。

ここに登場するのが3年の担任だった岡崎尚二先生である。私達の同窓会には必ず出席してくれる恩師である。先生とはそれほど「青春」した関係ではなかったが、やはり私達を成長させてくれた先生であり恩師なのである。「岡崎先生が担任してくれたから今がある」と言っても良いのではと私達は思っている。

何年か前の同窓会での先生の言葉である。

「俺が担任したクラスの中では、お前たちは優秀でもなく大した生徒ではなかったが、全体として平均を超えていたと思う。だから将来、何かやってくれる感じはあった。成長したお前たちに会って嬉しく思っている」。

私達は先生の言葉を理解している。

「そう決して優秀な生徒ではなかったし、たいした生徒ではなかった。でも、やれる限り頑張ってきた」と思っている。

勉強はともかくとして高校生活十分を楽しんだし、その後に生かせる何かを学んだと思うのである。
その何かとは、それぞれ異なると思うが、幹事のそれぞれ生き方から次のようなことだと思うのである。

日々発生している出来事には真面目に対応している。
仲間のことを大事に思っている。
仕事ややるべきことに対しては熱心に取り組んでいる。
優秀でないが故に、人には優しく親切に接している。
決して諦めないで今日を歩いている。

書き出して、これらの言葉を眺めてみると実に平凡なことだと思う。

でも平凡なことを当たり前にできることは「凄い」と思っている。平凡さを舐めてはいけない。平凡なことの積み重ねが信用となり、徳を得ることにつながっているのである。信用は長い年月を必要とするものであり、徳は人のため、社会のために尽くすことで得られるものだからである。

それらは自分の力で捕まえることができないものであり、社会や天が与えてくれるものなのである。自分の力でたくさんのものを得るよりも、社会や人、天から与えられるものに価値があることを、今の私達は知っている。

だから「たいしたことのない生徒」だったことに感謝している。たいしたことがないからこそ得られている人生に感謝している。

私達は、今も元気でいてくれる岡崎先生と共にある会話とビールを交わせる日があることに感謝している。先生と同級生たちと過ごせる一年でたったの3時間は、平凡だけどかけがえのない特別な日であることを知っているからである。

言い換えれば、いつかは失う時間であることが分かっているから大事に思っている。

だから今日に感謝しているし、当たり前のように、また訪れてくれる明日にも感謝しているのである。

そして私達は、こんなことを感じさせてくれる同窓会を心待ちにしている。