コラム
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2022/9/13
1889    樋口季一郎中将
樋口季一郎中将

樋口季一郎中将を知っている人は少ないと思います。令和4年8月にお孫さんである樋口隆一さんとお会いしたことで、その足跡の一端を知ることが出来ました。更に調べてみると、第二次世界大戦において日本分断の危機から救った人物であることが分かりました。

1945年8月18日からの占守島(しゅむしゅとう)でのソ連軍との戦いで勝利したことで、ソ連軍の北海道への侵攻を妨げたのです。スターリンの計画では、占守島は一日で落とし、千島列島を南下、そして北海道に侵攻する計画だったのです。これら一連の行動は1945年8月15日以降の侵攻だったことを覚えておく必要があります。ポツダム宣言を受諾し終戦を迎えた3日後にソ連軍は満州、南樺太、そして占守島に侵攻してきたのです。

ポツダム宣言の玉音放送を聞いた樋口中将は「これからソ連の侵攻が始まる」と予想したので涙も流さなかったと言います。その時、占守島に精鋭部隊を配置していたので「ソ連軍の侵攻に備える」ことを命じていたといいます。勿論、これは大本営の意向を無視してのことです。自衛のための戦いも「しないこと」の命令を無視してソ連軍との戦いに備え、この占守島を死守したことで北海道を護ることができたのです。

もし武装解除したうえで自衛のための戦いも放棄していたなら、ソ連は千島列島、そして北海道から福島県までを狙っていたとされることから、戦後の日本は分断されていたかもしれないのです。東と西に分断されていたなら、東西ドイツや南北朝鮮と同じような国家になっていたかも知れないと思うと、樋口季一郎中将の情報力、現場での決断、そしてユダヤ社会と人間関係を築いていたことの事の大きさに気づきます。

全ての歴史においてIfはありませんが、もしこの時の責任者が樋口中将でなければ、戦後日本の国家の運命は変わっていたとしか思われません。

ソ連の情報を得られた背景にあったのは、満州国での中将のユダヤ人救出の決断があったからです。それは次のような事件です。

時は1938(昭和13)年3月8日。当時の樋口ハルビン特務機関長は、満州国との国境にあるソ連領オトポール駅に、2万人とも言われるユダヤ人難民が現れたとの報告を受けたのです。軍人としての立場を考えるとドイツと日本との関係から行動や救出はできないとなるのですが、「人道的には救助しなければならない」と考えて、ユダヤ人救出を決意したのです。救出のための決断と行動をした結果、南満州鉄道に対して救出のための特別列車を出すことを取りつけました。

そして1938年3月12日に、ユダヤ人難民を乗せた列車がハルビン駅に到着し、滞在ビザが出されたのです。これは杉原千畝の「命のビザ」発行の2年前の出来事です。

その後、樋口中将は太平洋戦争勃発の翌年となる1942(昭和17)年8月に北部軍司令官として札幌市に赴任しました。そして前述したように、占守島でソ連軍を迎え撃つことになるのです。

戦争を終えた後、ソ連は樋口季一郎氏を戦犯として引き渡すように命じますが、アメリカのユダヤ人がアメリカ政府に働きかけた結果、樋口氏を救うことになります。

日本を分断の危機から救った偉人の名前が、日本の歴史から抜け落ちていることが不思議でなりません。和歌山県の陸奥宗光伯といい、樋口季一郎中将といい、偉人として顕彰すべき人物の功績と名前が今に伝えられていないのです。

令和4年9月17日から19日まで、北海道旭川市を訪れますが、日本を護ってくれた偉人の顕彰も含めて考える日にしたいと考えています。