コラム
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2021/9/27
1850    損賠の仕事

地味な仕事のひとつに損賠の仕事があります。損賠とは損害賠償のことです。今では考え難いことですが、例えばその昔、社有車は任意の自動車保険に加入していませんでした。

保有台数が多いので自動車保険に加入するよりも事故が発生した場合には相手と交渉して損害賠償額を確定したうえで支払いする方が安価に仕上がったのです。自動車保険加入金額よりも事故が発生し都度、交渉して損害賠償額を支払いする方が会社利益になっていたのです。ですから会社業務で事故が発生した時は、保険会社が交渉するのではなくて損賠担当が会社外の被害者、または加害者と交渉することになっていました。

事故を起こした本人が相手方と交渉するのではなくて、損賠担当が交渉していたのです。こちら側が被害者であれば、まだ気分的には楽なのですが、加害者の立ち場で交渉する場合は精神的にきついものがありました。被害者からは言われるままですし、例え反論したくても会社の代表として交渉に来ているので、言葉や態度には気をつけなければなりません。しかも会社からは損害賠償の規定に基づいて賠償計算しているので、その金額以内で示談することが求められています。損賠の社内規定は絶対なので、その計算式を上回る金額での示談はあり得ません。保険会社並みのきめ細かい計算式があり、金額の幅がないので〇〇万円と計算結果があれば、その金額以下で示談をまとめなければなりません。結構きつい仕事でした。

そんな損賠担当をした時期がありました。普段、事故は発生しないので損賠の仕事は報告業務だけなのですが、加害事故が発生した場合、仕事量は圧倒的に大きくなります。物量もそうですし精神的な圧迫感も出てきます。指針として解決までの日数が決まっているので、その日を目途に示談を目指します。

ある事故を何度か交渉していた時のことです。先方の希望金額と合わないので先が見えない状況になっていました。そんな時、相手方も行き詰まっていることに気づいたのでしょう。

「では100万円でいいです。それで示談します」と話がありました。予定金額を上回っていましたが「よく100万円まで持ち込めた。これで示談しないと解決しない」と思い、示談のためのりん議書を作成しました。計算式で治療に要した日数を水増しして、100万円の答えになるようにしたのです。交渉に何カ月も要していたことと上司から「苦労をかけるが、解決まで頑張ってくれ」と言われていたので、この金額で決裁してもらえると踏んでいたのです。ところが上司に説明したところ「この案件で100万円は出せない。わしが見たところ損賠額は恐らく50万円ぐらいだろう。50万円で交渉してこい」と指示されたのです。

その場が真っ暗になりました。その交渉の時、これ以上の歩み寄りは無理だと判断して相手には「100万円で示談します」と答えていたからです。

暗い気持ちで再交渉に挑みました。前置きの話をした後で「すみません。社内規定に基づいて計算したのですが規定により50万円しか出せません」と伝えました。怒られると思っていたのですが、予期しない言葉が出てきました。

「そうですか。それは規定だから仕方ないですね。これまで無理を言いましたが正直に対応してくれたからこの件は分かりました。これ以上は止めましょう。50万円で示談に応じます」と答えてくれたのです。信じられないと思いましたが、持参していた示談書に署名と印鑑をくれたのです。

会社に帰って上司に報告しました。「そうか良かったな。勉強になっただろう」という一言でした。「もしかしたら上司は意地悪を言ったのではなくて、これまでの交渉記録から判断し、50万円で示談してくれると分かっていたのではないだろうか。もしそうなら凄い人だ」と思いました。真相は分かりませんが見通していたと思います。そして規定に基づいた金額での再交渉という試練を与えてくれたと思うのです。

それは「相手から、そして仕事から逃げることなく、まずは正道で仕事をすること。規定に基づいて示談できない場合は自分で判断するのではなくて専決権限者を説得して決めること」を気づかせようとしたと思うのです。

常道の仕事のやり方を行うこと。それで解決しない場合は専決権限者と話し合って結論を導くようにすること。専決権限者がそれで決裁した場合の責任は権限者が取ってくれますが、権限者を騙してりん議書を決裁した場合、後で担当者の嘘が判明した時は責任を取れないので担当者が責任を負うことになります。組織で仕事をする場合の心得とルールも教えてくれたと思います。