コラム
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2021/9/8
1839    現代に生かしたい日本の歴史2
3.倭国から日本へ

日本史において大事な戦いがあります。それが白村江の戦いです。これは天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江での日本と百済の連合軍と、唐と新羅連合軍との戦いのことです。

結果として日本と百済軍は敗れますが、日本が国家として国際社会で認められた戦いとして歴史上で大きな意味があります。

日本は敗れたものの自国の立場を主張したことから、敵国であり大国であった唐との友好関係が樹立されることになります。そして敗れた後、急速に国家体制が整備されることになり、天智天皇の時代には近江令法令群、天武天皇の代には飛鳥浄御原令の制定が命じられ、律令国家の建設が進展しました。

わが国にとって大きな意味は、それまでわが国は倭国と呼ばれていたのですが、国号を「日本」に変えたのです。白村江の戦いで敗れたものの、わが国は国際舞台で立場を主張したことや、今後の大国との戦いに備えて危機感を持ち「日本」という新しい国家を誕生させたのです。ここに新しい国家「日本」は701年前後に誕生したのですが、それは国際社会で自国の立場を主張したことで大国である唐に認められたこと。また唐と新羅連合軍との戦いに敗れたことで危機感を持ったことから新国家を築こうと体制を変えたことが要因です。敗れたことから国の体制を変えて攻撃に備えようとしたのです。しかし戦勝国であり大国の唐は、日本に攻撃を仕掛けてきませんでした。そこで学びたいことは次のことです。

国際社会でモノが言える強いリーダー、有事にあって他国と対応出来るしなやかな能力を持ったリーダーの登場が国を護るために不可欠だということです。もし敗れたことの原因を他に持っていき責任を負わない、敗戦後も考えを変えない、体制を変えないような国は滅びます。敗れたことで倭国から日本へと、これまでの制度を改めて国を生まれ変わらせたのです。ここにも現代に通用する社会の法則を感じます。

4.貨幣経済導入

そして室町時代へと歴史は進み足利義満時代です。北山文化が華やかだった時代です。文化が花開く時代は豊かな時代だったことが推測できます。義満は貨幣を取り入れようとお隣の国の明に依頼しましたが、当初、相手にされませんでした。何故なら「日本には天皇が国家元首であり将軍と言っても豪族の一人」だと思われていたからです。一人の豪族にお願いされたぐらいで国家が動くことはありません。

そこで「どうしたら貨幣を輸出してくれますか」と尋ねたところ「近海に日本の国の海賊船が出没するので何とかできないか。海賊船を止めることができたら希望を叶えよう」と答えを得ました。そこで将軍義満は一休さんと相談をして、海賊退治を熊野水軍に依頼することになりました。

「あなたの力で海賊を抑えて欲しい。そうすれば褒美を取らせよう」と話を持ち掛けます。無敵だった熊野水軍は瀬戸内海などの海賊に「将軍の言うことを聞け」と呼び掛けて海賊の動きを鎮めます。

海賊が来なくなったことに驚いた明の国王は室町幕府のことを認めます。そして通貨を幕府に輸出したのです。そこからわが国の貨幣経済が始まりました。貨幣を流通させたことが経済対策であり文化的な時代に仕立て上げた理由です。金箔塗りの金閣寺は、明からの使者を迎えるための迎賓館だったのです。

もう言うまでもないことですが、京都の北山文化とは公家、武家、そして明の三つの文化が入り混じってできた独特の文化なのです。