コラム
コラム
2021/7/6
1801    龍馬の偉業

坂本龍馬は28歳から33歳までのわずか5年間で、新国家につながる道筋をつけています。薩長同盟と船中八策、そして大政奉還という日本史に輝く三つの偉業を成し遂げているのです。脱藩した浪人が新国家建国のために命を賭してその役割を果たすのです。動乱の時代だとしても一人の浪人が幕府や薩長の要人と交渉できたことが凄いことですし、新国家に向かうために必要なしくみを整えていく思考と行動は余りにも見事です。

そして龍馬の誕生日、暗殺者に切られた時「残念だった」と言ってこの世を去ったとされています。「残念だった」に込められた思いは何だったのでしょうか。

当時、龍馬のことを「八方美人」「調子がいい」「理念がない」「一貫性がない」と言われたことを聞きました。しかし大人物ですからそんな雑音は無視して「言いたい奴には言わせておけ」と思って自らの思いを持って行動をやり遂げようとしたのです。
「世に生を得るは事を成すにあり」。龍馬の言葉です。生を受けたからには社会に役立つことを成し遂げると考えるべきなので、雑音は取るに足りないということです。

雑音は気になるもので精神を苛立たせ、また不安にさせます。しかし雑音は単なる雑音であり、志のない人達の根拠なき責任のない言葉に過ぎないのです。
最後の言葉「残念だった」は、そんな人物に新国家への集大成へ向かう道を邪魔されたことを残念だと言わせたことと思います。

時を少し遡って、大政奉還を成し得た時に龍馬が西郷隆盛に明治新政府の人事案を示した時のことです。人事案に坂本龍馬の名前がなかったことから西郷隆盛は龍馬に尋ねます。 そこでこの言葉です。「世界の海援隊でもやりますかいのう」。事を成し遂げた後のことは後の人に任せるだけ。その潔い姿勢は全くもって憧れです。

その場にいた薩摩藩家老の小松帯刀は「坂本さあは、もはや世界が相手でありもすか〜」といったと言われています。

また陸奥宗光は、後にこのことを振り返り「この時の坂本は西郷よりも2枚も3枚も大人物に見えた」と語り継いでいます。明治政府の要人になった時にでも、この話を語っていたと言われているようです。

それまでの成し遂げたことを自分の手柄にすることなく、あっさりと違うところを目指しているのです。龍馬の生き方を学ぶと、自分の手柄話をする人が小さく見えてきます。

いつか誰かに尋ねられた時、「世界の海援隊でもやりますかいのう」の台詞を言いたいと思います。「人の悪口や批判を陰で言って、行く先を遮って手柄を横取りするような奴がいる世界には用はない。小さなところで地位を求めていることが意味のないことだと気づかない世界にいても世の中は良い方向に向かわない。そんなことより、国が栄えて周囲が栄えて、そして自分も栄えることを目指すべきだ」だから「世界の海援隊でもやりますかいのう」の言葉が適しているのです。
尤も小松帯刀や陸奥宗光が感じ取ったこの言葉の意味を、小人物は理解しないと思いますし、もちろんこの台詞の「海援隊」のところに別の言葉が入ることになりますが・・。

このような歴史上の偉業は数年間で成し遂げられていることが多いように感じます。但しその前に、実力と人脈を培ってきた年月があることは言うまでもなく当然のことです。