コラム
コラム
2021/6/28
1795    もののけの森のマリア
もののけの森のマリア

和歌山フラメンコ協会の森久美子会長の熱意に触れました。和歌山県で開催される「紀の国わかやま文化祭2021」で「もののけの森のマリア」を公演する予定にしています。令和3年11月3日が公演日ですが、そのための準備を進めています。脚本と配役、振り付けや音楽の選定、出演する皆さんへのレッスン、そして演出と主演などの全ての工程に全力を尽くしていることが分かります。その姿に接していると熱い気持ちを感じます。一つは和歌山フラメンコ協会発足20周年記念式典の時。もうひとつは後援のお礼のため和歌山県庁と和歌山市役所を訪問した時です。

一緒にいるとその熱意と言葉から、この公演に全てを賭けている気持ちが伝わってくるのです。「この公演が最後の舞台になっても構わない」「教育に携わる方にフラメンコを観ていただき文化を感じて欲しい。観なければ分からないことがあります」「全国の皆さんに和歌山県が育んだフラメンコを観て欲しい」などの言葉に込められた思いが伝わってくるのです。

県観光協会、文化学術課、和歌山県教育委員会教育長、和歌山市長、そして和歌山市教育委員会教育長と懇談する時は、フラメンコの素晴らしさと今回の舞台に賭ける意気込みを夢中で説明している会長の身体から情熱が溢れています。

市長に対しては「和歌山市から発信するフラメンコは市の文化を高めている」という気持ちが伝わってきましたし、市教育長に対しての「これまで鑑賞したことがなければ是非、観に来てください。情熱を感じてもらえると思いますから」は、文化の発する力と舞台の感動と子ども達に伝えて欲しいという思いが詰まっていました。

僕は、会長はフラメンコに人生を賭けているので生涯現役だと思っています。しかし発したのは「この先、いつまでやれるか分からないから今年の舞台が大事なのです。最後の舞台だと思って取り組んでいます」という決意の秘めた言葉でした。この舞台に全てを賭けている覚悟を感じます。

「最後かもしれない」の言葉は、長い時間をかけて続けてきたものに対してだけ使える言葉です。極端ですが、一週間やったことを辞めようとしている時に「今日が最後かもしれない」と言っても誰も感動することも情念を燃やしたと感じることもありません。数十年間、フラメンコに賭けた人生だからこそ言える言葉なのです。

勿論、僕はこの舞台が会長の最後ではなく、この公演も通過点だと思うのです。この「紀の国わかやま文化祭2021」の機会は数年前から目指していた舞台であり、全国が和歌山県の文化度に注目するものなので、「絶対に和歌山県の文化度の高さを認めさせる」「和歌山県のフラメンコの力を感じてもらう」ことを決意していると感じています。

「もののけの森のマリア」は熊野古道を舞台にした神秘的な空間の中で繰り広げられる神々の世界を、情熱のフラメンコで表現するものだと思っています。わが国が有している神秘の世界を情熱の踊りで表現することは簡単ではありません。神秘とは静けさの中に潜むものですが、決して静かなだけではなく奥底に情熱の炎の存在があるものです。表面は静かで内面に炎が潜んでいることを表現してくれそうです。熊野には「記紀」「行幸の道」「蟻の熊野詣」「世界遺産」までの歴史がありますから、この神秘と歴史、そして人が織りなす物語をどんな表現にしてくれるのか楽しみです。