コラム
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2018/11/28
1734    突然の別れ2

僕がいつものことですが、母に「何か食べるものある」と聞くと「何も用意していないよ。来るなら言っておいてくれないと」と言いながらも、「来て下さい」と話してくれるので実家に行くと、食べきれないほどの量の食事を用意してくれていたのです。

「もう年だからこれだけも食べられないよ」と言うのですが、毎回、たくさんの食事を作って待ってくれていたのです。きっと母親は、僕はまだ小学生の頃のままで、食べる量は高校生の時と同じだと思っていたのでしょう。それはたくさん食べて成長することを願っていたと思います。まるで57歳の高校生のようで、かつ、お母さんの子どもだったのです。

この日のことを的確に状況を伝えるべき言葉はありません。叔父さんが母親に向かって話し掛けていました。ぼろぼろと涙が溢れました。

「よく頑張ったな。本当に頑張りました。もうゆっくりして下さい、あなたのように頑張った人は他にないと思います。勲章をあげますよ。本当に頑張りました。これだけ自分を犠牲にして人のために尽くした人は他にいません。どんなことを言われても辛抱強くて、我慢をして。その心は章浩に引き継がれていますよ。章浩もあなたと同じように人のために尽くしています。もう成長しているので安心して下さい」と話し掛けているのです。

叔父さんが言うように母親は本当に自分のことを犠牲にして人のために尽くした凄い人でした。そして辛抱強くて、明るく優しく、多くの人に好かれる人でした。いつも友人たちと一緒にいることを安心して見ていました。

昭和39年1月5日、母親のお母さんが食道がんで亡くなったそうです。母親が中学3年生の時だったそうです。2歳年下の弟の叔父さんと6歳年下の弟の面倒を見ながら育てたそうです。どんな苦労があったのか想像できませんが、叔父さんは「お母さんみたいに苦労してきた人は知らない」と言ってくれたから、並大抵の苦労ではなかったと思います。そんな苦労をしながらも僕を産み育ててくれたのです。母親がいなければ僕はありません。今の全てがあるのは母親のお陰だと思っています。

親戚の咲子さんが話してくれました。「章浩がいるから元気でいられる」といつも言っていたこと。「今日、章浩が来るから食事を作らなければ」と話していたこと。どれだけの愛情に包まれていたのかと思うと、お母さんに親孝行できなかったことを悔いています。いてくれることが当たり前だと思って甘えていました。一人暮らしなのだから、もっと実家に行くべきだったこと、電話やラインをもっともっとやればよかったこと。食事や旅行に連れて行ってあげれば良かったこと。何もできていないことを悔やんでいます。

母親は僕のことを「自慢の息子」と話してくれていたようですが、全然ダメです。何もできていないのです。母親の命も守れなかったのですから。そして最後に話をすることもできなかったのですから。突然過ぎて、母に聞きたいことがたくさんあったのに、まだまだたくさん話をしたかったのに。何もできていないことを悔やんでいます。

「来るから先に言ってくれていたらもっと用意できたのに」と言いながら、食べきれない量の食事を食べさせてくれたこと。「もう、こんなにたくさん食べられないよ」という僕に「食べなければ元気にならないよ」と言ってくれた母。

たくさん食べた後に「アイスクリーム食べる」、「ヨーグルト食べる」、「コーヒー飲む」と言ってくれた母。そして「じゃ帰るわ」と立つと「栄養ドリンク持って行って」、「お茶持って行って」、そして「栄養剤を持って行って」とたくさんくれた母。そんな少し嬉しい場面が無くなると思うと何とも言えない気持ちになります。

今日、傍にいますが遅すぎました。子どもの時のように母親の傍にいられることを嬉しく思った日ではなくて、今日の傍にいる日は最も悲しい日です。

お母さん、ありがとう。今ここにいるのはお母さんのお陰です。本当にありがとう。