コラム
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2015/10/26
1614    ぼくは明日、昨日のきみとデートする

一気に三度読みした小説に出会いました。七月隆文さんの著書「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」です。「とても泣ける」と評判があり、読書の秋だから「読んでみよう」と期待しないで読み始めました。ありふれたドラマだと思っていたのですが、後半戦からは、毎日が今日という限られた時間だから、心を今のこの時に向けておくことが幸せに生きることだと考えさせられました。幸せは明日にあるのではなく、今この瞬間に存在していること。そして幸せを感じて生きた一日は、過去となっている今日を懸命に生きたという思い出になり、小さな幸せな日々として積み重ねられていきます。今日の幸せが過去の幸せと重なり合って、明日も幸せに生きられることにつながると思わされます。

そして常に一日が前に向いて進んでいく気持ちを持っていることが、とても幸せなことだと気付かされます。先のこと、明日のことすら分からないことが幸せだと気付くことになります。不安もあるけれど未来に向かって思い出を作っていくことが、とても幸せだと思えるのです。

この小説にあるように、もし未来から過去に生きているとすれは、年齢は若返りますが幸せな記憶が消されていくことになります。人が生きていけるのはこれまでの幸せな思い出が消されることなく記憶として残るからです。もし続いている幸せが、「これで最後になる」と分かっているなら、どれだけ「今を大切にしよう」と思うことになるのでしょうか。

小説の中に「どこに泣く要素があったんだよ」という主人公の台詞がありますが、泣く要素とは、体験が「最後だったから」からなのです。今日の出来事が「これが最後」だと分かっているなら、最後だと思うなら、些細なことでも幸せを感じ、泣ける要素になるのです。

この食事ができるのは今日が最後になるとしたら・・・。

この仕事ができるのは今日が最後になるとしたら・・・。

一緒にいるのは今日が最後になるとしたら・・・。

親と会えるのは今日が最後になるとしたら・・・。

きっと、毎日当たり前のように訪れている平凡な時間と違う思いが生まれてきます。

今日食べているこの食事を明日も同じように食べられると思っているから、食事に対して何も感じませんし幸せも感じていないのです。

この仕事を明日もしなければならないと思っているから、仕事の時間が嫌で時間になり、幸せを感じるどころか、早く終わって欲しいと感じてしまうのです。

明日も一緒にいられると思うから、その時間がマンネリ化して幸せを感じなくなってしまうのです。

親と過ごせる時間が永遠に残されていると思うから、今日、実家に行かなくても、連絡を取らなくても良いと思っているのです。

ここに示したよっつの事は、お祈りしなくても、お願いしなくても、明日も訪れてくれると思っているから幸せを感じないのです。でも、もし訪れなかったとしたら、一気に不幸せになってしまいます。そして気付くことになります。「毎日、当たり前のように自分の周囲で起きている出来事が幸せだったんだ」と。

幸せは今この時にあります。毎日訪れるこの時に幸せを感じることが生きていることです。