コラム
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2015/9/10
1608    ありふれた光景

Sさんのお見舞いに行ってきました。肺癌と格闘中のSさんは、一ヶ月前にお見舞いをした時とは打って変わって「辛そう」でした。しかし嬉しいことに私達には「今日の体調はかなり良い」と笑顔で対応してくれたことで安心しました。この1時間ほどのお見舞いの時間を上手く伝えるのは難しいのですが、良い意味で「たのしくて幸せなお見舞い」だと表現できます。辛い闘病を続けていますが、「仲間がいることで頑張れる」という感じがしたからです。

そんなSさんの言葉が、当たり前のことを何も思わないで出来ていることに感謝しなければならないことを教えてくれました。

「やりたいことができないのが辛いことです。自分の足で動いてやってみたいことがあります。それは一階の喫茶店に行ってコーヒーを飲むこと。病室から他の階に歩いて行ってみること。食事をすることです」。

Sさんがやってみたいことは次のようなことです。

  • 喫茶店でコーヒーを飲むこと。
  • 自分の足で歩けるようになること。
  • 食事を食べたいと思うようになること。
  • 少しだけビールを飲めたらということ。

健康な人ならこれらの行為が有り難いことだと気付くこともなく、仮に気付いたとしても当たり前すぎて感謝の気持ちが起きないことばかりです。これまで、喫茶店に行ってコーヒーを飲むことに感謝している人の話は聞いたことがありません。歩けていることに感謝している人にも会ったことはありません。

でも健康を害すると、こんなごくありふれた日常的なことが愛しくなるのです。どれだけ恵まれた毎日を過ごしているのかを知りました。当たり前のように思っていること、当たり前過ぎて何も感じていないことが、どれだけ素晴らしいことか感じることができます。

喫茶店でコーヒーを飲むことは、仲間と会って話している状態を指します。自分の思うように動けることは自由で生きていることの現われです。好きなものを食べることは最も単純な幸せの姿です。こんな素晴らしい毎日が訪れていることに感謝したくなります。健康、仲間、自由。これらの言葉を享受できていることが幸せなことであり、そんな素晴らしい日々に不満を言うことはできないのです。

今日も太陽が輝き、心地良い風が吹き、やさしさを感じられる友人達との語らいがあり、おいしいコーヒーがある。この光景がずっと続くことが幸せだと思えます。

ある人が「2年間、癌と闘っている人がいますが、その人はビールを飲めるまで回復しています。心の持ち方で闘いに勝つこともできますから。その人が言うには、死と向かい合って分かったことは、生かされているということだそうです」と話してくれました。生きているのではなくて生かされている。生命を与えてくれた創造主が後にいるような感じがします。

生かされている存在であれば、私達は生かされている意味を考え、生命を与えられた役割を考え、それを意識した行動を取りたいと思います。役割がないことや、役割を果さないことは生命をつなぐという天の法則に反するような気がします。