コラム
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2015/5/20
1591    80歳の誕生日

昭和10年5月19日が母親の誕生した日です。平成27年5月19日に満80歳の誕生日を迎えました。「もう80歳になるのか。早いなぁ」というのが僕の感想です。

これまで母親の誕生日をお祝いする年は少なくて、これまでは忘れていた年もありました。今回は、知人から「明日はお母さんに感謝ですよ。忙しいと思いますが、親が元気でいる間に孝行してあげて。喜んでくれると思いますよ」とメッセージをいただきました。

「明日は家に行くつもりですが」という回答をすると「行かなければ駄目ですよ」という答えが返ってくるなど、母親の誕生日をお祝いすることが自分へとつながることになると思いました。当然ですが母親がいたから自分が誕生しているのであって、この世界に誕生させてくれたことはどれだけ感謝しても足りないくらいです。

振り返ると母親と一緒にいた時間は意外と少なくて、生まれてからの時間、そして10歳代から20歳代に掛けての時間だけで、30歳以降の人生の時間が多くなっている現在、30年以上は母親と離れて生活をしていることになります。小学校低学年の時は授業参観や運動会など、小学校に来てくれることが嬉しかったのに、高学年になると「見に来なくても良い」と思うようになりました。

中学校になると給食が弁当になりました。最初は弁当箱を持っていっていたのですが、途中から友人達と学食で食べる方が楽しくなり、弁当を持たない日もありました。早起きして一所懸命に弁当を作ってくれていたことも知らずに勝手なことを言ったことで、悲しませたのではないだろうかと今は思っています。中学校3年生の頃は反抗期だったように思います。気付いたことを言ってくれていたのに、余り干渉して欲しくないから口出ししないで欲しいと思っていたように思います。

男の子は高校生になると母親の手を離れてしまいます。高校受験を心配してくれて入学した時に喜んでくれていたのに、高校生活に入ると自分のことばかりで母親の心を忘れてしまっていました。家には帰るだけという高校生活で、どんな学校生活をしているのか知らなかったと思います。

社会人になった当初は朝の6時過ぎに家を出て、帰宅は午後10時前後の日が続きましたが、朝起こしてくれて見送り、夜は寝ないで待ってくれていました。まるで小さな子どものように心配をかけていたと思います。

そして40歳になって生活が落ち着いて心配しなくても良い年代になった時、和歌山市議会議員選挙に出ることになり、母親には大変な苦労を掛けてしまいました。それまで選挙に関わったことはなく、朝から晩まで僕のために知り合いのところに挨拶に行ってくれていました。それまでは人に借りのない人生だったと思いますが、僕のために借りを作ってしまったように思います。市議会議員選挙と県議会議員選挙3回、通算4回の選挙の手伝いをしてくれていますが、毎回、心配と負担を掛けてしまっています。精神的にも体力的にも負担を強いているのですが、もう80歳になり、これ以上無理をお願いできない年齢となりました。

僕からは言い難いのですが、母親は誰からも信頼され良い人だと評判を得ています。人から母親の悪口を聞いたことはありません。親切で優しくて思いやりがある。我慢強くて、決して表に出ない控え目な立場を取っています。

これまでたくさんの苦労してきた人生ですから、これから少しはゆっくりとして下さい。そしていつまでも健康で元気に、幸せでいて下さい。80歳の誕生日。おめでとうございます。こうして母親にお祝いの言葉を伝えられることは幸せなことです。これからも毎年、誕生日のお祝いの言葉を伝えられることを心から願っています。