コラム
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2014/10/28
1548    生きていること

平成26年9月25日、入院中の父親の容態が芳しくないことから様子を見てきました。今までも細かったのですがそこから一段とやせ細り、人はこんなに細くなるものかと思いました。骨と皮だけの身体になっていて、ベッドの脇に置いてある痰の吸引器を見て「もう可哀想」だと感じました。眠っているというよりも目を閉じているという状態で、もう目を開かないのかと思うほどの状態でした。糸を引いたような目は開けることを望んでいないようにも見えました。

寝ているようでしたが声を掛けると、小さな声で言葉を発してくれました。発した言葉は「心配しなくても良いから」と「もう少しは大丈夫だから」というものでした。まだ僕だと分かってくれていることが嬉しいことですし、言葉を交わせるということが嬉しいことだと思いました。言葉を交わせる、そして生きているということが、こんなに幸せだと気づいています。

父親が話した数少ない言葉は「しんどないよ」、「食べたくない」だけでした。単語を並べて言葉にしたくても言葉にならないのです。不意に何故かその時が近づいているような気配がしました。そんなことを思ってはいけないのですが、掌から流れ落ちていく時間が隙間から零れていくような感じがしました。時間は未来に向かって流れていく、または未来に向かっていくような感覚が常ですが、この時ばかりは、時間は下に向かって流れ落ちるんだと感じました。

少しの言葉を交わした後は正に寝息と共に眠りに落ちたようです。安心したのは寝息と呼吸をしている肩、そして小さな鼾です。生きていることを証明するかすかな生の営みの音が愛しく感じました。

人はその時に向かって、これまで生きていた中から掴んだものを少しずつ手放していくようです。手放すことが惜しかったものでも、やはり手放さなければなりません。持って行けるものは何ひとつないのです。では人は生きていく中で何を集めるべきなのか。それは物ではなく、名声でもなく、名誉でもなく、人に与えることを集めることだと思います。与えたものだけがこの世界に置いていけるものです。

持っているものは持って行けないで、与えたものだけがこの世界で持ってもらえるものなのです。自分が持っているものはなくなり、与えたものが残るという生と死の真実を知ることになりました。

人に自分が与えられる行動を取ることで、嬉しさ、喜び、感謝、幸せ、感動、憧れ、希望、期待を与えることができます。今は分からないけれど、きっとベッドの上で言葉に出せなくても、これまで人に与えてきたものを思い出していると思います。繰り返しますが、嬉しさ、喜び、感謝、幸せ、感動、憧れ、希望、期待というものを思い出すことで、自分もそんな気持ちに浸っていると思います。持って行けないけれども、きれいな言葉で言い表せる残せるものがあることが生きていた証だと思います。

生きていることに感謝。言葉を交わせることに感謝。呼吸をしていることに感謝。姿を見られることに感謝。容態を見に行ける場所があることに感謝。そしてたくさんの思い出があることに感謝しています。生きている、それだけが幸せなことだと思います。