コラム
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2014/2/13
1407    春の到来

平成26年の杵屋栄七珠の会主宰の新春のお弾き初めの途中にアナウンスがありました。

「演奏会に向けてお三味線の稽古を続けてきました。稽古では本番で披露する曲目を繰り返します。何度も何度も繰り返すのですが、そこでその時点で最高のレベルの演奏にまで高めます。稽古でできることが本番でできるとは限らないので、失敗のないようにレベルを高めて行きます。

それでも緊張する本番では稽古と同じレベルで演奏できないことがあります。でも稽古でできないことを本番でできることは絶対にありません。陸上走り高跳びの練習において、跳べない高さを試合で跳べることはないのと同じです。練習でできるこことだけが試合でできる可能性があるということです。その可能性を限りなく高めるために何度も練習で繰り返し行っているのです」。

アナウンスにある通り、練習でできないことが試合でできることはありません。練習で目立つ必要は全くありませんが、繰り返してできるようになるのが練習です。練習でできることの中の一部が試合でできることなのです。

勉強と試験の関係も同じです。勉強で解けない問題が試験で解けることはありません。模擬試験で点数が取れなかったのに本番の試験でそれ以上の点数が取れることは、マークシートで幸運が重ならない限りないと思います。

どれだけ練習に時間をかけたとしても試合や本番は一瞬で過ぎ去ります。たった一瞬のことなので長い時間をかけて練習することや勉強することは馬鹿らしい。だから何とかなると思うものですが、長い時間をかけなければその大事な一瞬を自分のモノとして切り取ることはできません。

馬鹿らしくなるようなその一瞬のために、助走の時間をどれだけ確保できるか、どれだけ反復訓練ができるのか。それが輝く一瞬を得るために必要となる唯一の方法です。

名取の杵屋先生が舞台から、「最後に娘七草の長唄と演奏を行います。何度も稽古をしてきた演目です。稽古をしても難しい曲ですが、皆さん聴いて下さい」と言いました。恐らくこれまで、数え切れない時間を稽古に費やした曲だと思います。それでも毎回奏者が変わる舞台で、上手く演奏できるかどうか分からないのが本番です。

自分のリズムで、自分のペースで演奏できる稽古と違って、お客さんが聴いている舞台は緊張感がありますから、実力があってもその全てを発揮できるとは限らないのです。本番で最低限必要な100の力を発揮するためには、稽古でその倍以上の技術が必要になるのではないでしょうか。

新春の演奏会では稽古の持つ意味を。そして本番で実力を発揮することの難しさと楽しさを味わうことができました。本番の中に隠されている稽古に費やした時間の長さを知ることで、本番の演奏の聴き方が違ったものになります。

とても寒さ厳しい一日でしたが、長い稽古の末に本番を迎えることができる姿に接して、春の足音がかすかに聞こえてくるような気がしました。これから訪れることに期待できるような、新春のお弾き初めとなりました。春の到来とは、これから迎える時間の中に期待があることを感じられることだと思います。