和歌山県が毎月発行している「県民の友」。この「県民の友」のことで何人かの人と話をする機会がありました。この冊子の中で「読んでいる記事はどれですか」という質問に対して、ほとんど全てに近い人が「知事メッセージ」だと答えてくれました。これは予想していた通りで納得できる答えです。
理由は「知事の思いや考え方を知ることができるから」、「知事の人柄が分かるから」、「自分の言葉でメッセージを発信してくれているから」といったものです。自分の思いや考えを、自分の言葉で伝えることが共感を得られるコツなのです。
ですから誰かに書いてもらった原稿を感情を込めないで読むことや、報告書的な文章を掲載しても共感を得られないのです。報告書や感情の入っていない文章も必要ですが、それだけでは人は読んでくれません。人に感動を与えられるようなメッセージ性のある文章をひとつでも掲載することが好ましいと思います。
式典において代理でメッセージを拝読する場合、あまり共感しないのは発信者の心が伝わってこないからです。式典の挨拶において用意した原稿を読んでくれても感動しないのは、心が伝わってこないからです。
書かれたものが悪いとは思いませんが、書かれたことに自分の思いや考えを追加して伝えてくれると聞いてもらえるメッセージになります。例えば、その式典の主催者と挨拶をする人とのエピソードや、その場所の思い出などを自分の言葉で伝えられると、形通りの挨拶であっても、そこの部分に共感してくれると思います。その思いの部分が「県民の友」の知事のメッセージの部分に該当するからです。
記録としての筋書きのある報告文は必要です。客観的に伝えたい文章も必要です。決ったことの周知やイベントの案内も必要です。でもそれだけでは関心を持って読んでくれないのです。人が感動するのは、その行動であり、その思いであり、その言葉にあるのです。
報告書は熱心に読まないけれど、関心のある書籍は一気に読んでしまうことがあります。
秘書が書いた原稿を読むだけの挨拶には感動しないけれども、思いを自分の言葉で伝えようとする挨拶に感動することはあります。資料を読んでも感動しませんが、資料を基にして書かれた歴史書を読んで感動することがあります。
人としての思いや考えが挨拶や文章に込められていると、聞いた人や読んだ人が感動してくれるのです。
今回の「県民の友」の知事メッセージ「長嶋選手と技術」という題名でした。この中にヒントがあります。該当部分を引用すると、「政治行政の技術とは何でしょうか。それは現実と制度についての正しい知識なのですが、それは単に現在の制度がどうなっているのかという事だけではありません。それがどんな理由ででき上がっているのかという知識、そして人々の幸せのためにはこれをどう動かしていくべきかという知識のすべてが合わさったものであると思います」ということです。
つまり制度の説明をしても関心も感動もありませんが、その制度が存在している理由、それをどう解釈して人の幸せのために運用していくかという人としての思いと考えが書かれていたら、そこに人は共感し感動するのです。