コラム
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2013/11/21
1364    段階を経る

諦めないことは大切なことです。しかし前に進むための段階を踏まないでいて、口だけで諦めないと言っていても、誰も凄い挑戦だとは思わないのです。

例えばオリンピックの100メートル競技。国内予選、オリンピックの予選、順々決勝、準決勝を勝ち上がって決勝に進んだ選手は、例え決勝戦で最下位だったとしても素晴らしいことです。夢の舞台の決勝に出場したのですから。それが凄いことだと思うのは、予選から段階を経て勝ち上がっていったからです。決勝戦で、仮に大差で敗れたとしても、世界で八番なので賞賛に値することです。

でも、あり得ない事ですが予選を戦わないで、いきなり決勝戦に登場した選手が圧倒的大差で最下位に沈んだとしたら、賞賛されるどころか決勝戦を冒涜することになりますし、オリンピック自体の価値を下げてしまいます。しかし現実にはこんなことはあり得ません。

が、私達の周囲にはこれと同じような出来事があり得ているのです。それほどの努力もしていないのに、自分が一番偉いと思い込んでいて、「それは達成できる」と豪語している人がいるのです。周囲の人はその人の実力を知っていますから、誰も凄いともできる人だとも思いません。ただ本人だけが志があることを自慢しているのですから失笑です。

達成できると思えるには段階を経ることが必要なのです。長い年月の練習や取り組みを経て決勝戦に進むように、私達が目指しているものに対しても、人の何倍も日頃の取り組みが必要です。人の何倍も努力していることを前提に、「頑張ればそれが達成できる」のであって、人並みの努力かそれ以下で頑張っても「それは達成」できないのです。

「頑張ればそれが達成できる」ためには、土台を築いていることが必要です。土台を築いていない人がいきなり高層建築物を建てると言っても、それは誰も認めない愚かな行為となります。

そのテーマに関して調査も用意もしていない人が、会社の命運を決めるようなプレゼンテーションの機会は与えられることはありません。授業を真面目に聞いていない、定期テストが平均点以下の生徒が、有名大学を受験するといっても誰も凄いとは思いません。むしろ無謀な挑戦だとか、何を考えているのだろうと評価されるだけです。尤も他人の評価を気にして自分の行動を決するものではありませんが、挑戦するということは自分がこれまでやってきた土台が築かれていて、勝てる可能性があるということです。

土台もないのに挑戦しても無謀なだけで、それは勇気ある行動、賞賛される行動、素晴らしい決断に基づいた行動だとは言わないのです。やるべきこともやらないで挑むことは挑戦とは言いません。

高いところに挑戦するためには、高く飛べるだけの基礎力が必要で、基礎力は長い間の継続した取り組み、同じようにそこを目指している人の何倍もの努力をして身につくものです。

実力のある社員が社長に進言すると勇気ある行動となりますが、そうでない社員が同じことをすると「一体何を考えているのだ」となります。偏差値60の生徒が超一流大学を志望すると「本番は頑張れ」となりますが、偏差値が50以下の生徒が同じ大学を志望したら、「一体何を考えているのだ」となります。社会は段階を経て準決勝、決勝へと進んでいくのです。一足飛びにそこに到達することは叶わないことを知って行動したいものです。