コラム
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2013/11/13
1359    いのちの授業

「いのちの授業」。福岡県久留米市の高校教諭の真鍋公士先生の授業のドキュメントを見ました。生徒にひとつずつ受精卵を配布し卵に名前をつけます。生徒が卵から孵化させひなを育てていきます。中には孵化できないで卵のまま命を落としてしまうひなもあります。「命はというものは、生まれたくても生まれられない命もあるのです」と真鍋先生は生徒に教えます。生き物が命を与えられることだけでも奇跡のようなものです。

ひなは孵化から三週間もすると随分大きくなっていきます。生徒は飼育を通じて自分たちが生きる意味を考えて行きます。「生徒の言葉は教師が受け取る成績表である」。そんな解説の言葉がありました。

そして鶏に成長する時が近づいてきます。成長とは解体する日が近づいてきたことを意味しています。解体にはふたつの方法があります。自分で解体することと事業者に任せることです。解体を事業者に任せると楽ですが、自分で解体すると心に痛みを感じることになります。それでも自分で育てた鶏を自分で解体することを選ぶ生徒がいます。その理由は、自分が育ててきた命だから最後まで責任を持つことにあります。

命の最後を見届けるのは自分であり人に任せないという気持ちが生徒に芽生えるのです。最後まで面倒を見る、それが命を大切にするということです。

ひなからひよこ、そして鶏へと育て一緒に過ごした時間が長いほど、命の大切さが重く圧し掛かってきます。スーパーなどで見る食料品の形になっている鶏からは命の重みは感じません。しかし自分が育てた鶏を解体し、命を消して食肉にすることは残酷なようですが、人は命をいただいて自らの命を保っていることに気付きます。

人が成長するということは、数え切れないたくさんの命をいただいているのです。肉も魚も切り身という商品の形でスーパーに陳列されているので、それが命であった形跡は見ることはできません。ところがひなから育てた鶏は命そのものです。名前をつけて子どものように育てた鶏を最後は解体する。それが命の授業なのです。

生徒は自分で育てることによって、全ての生き物には命が宿っていることを学びます。

そして命は何のためにあるのか考えます。命は人に与えるためにあるのかも知れません。

自分の命を人に捧げてくれる鶏。人も自分の命を誰かのために使う時が訪れます。復興支援のために和歌山県から福島県に行ってくれている人がいます。地域の人のために尽くしている自治会役員がいます。観光に来てくれるお客さんのために毎日、公衆トイレの清掃を続けている人がいます。子ども達に英語力を身に付けてもらうための教育を続けている人がいます。全ては自分の時間を人のため社会のために充てているのです。

自分の時間とは自分の命と同義語です。そんな大事な時間を誰かのために使うことは、命を人のために使っているのと同じです。育てた鶏の命をいただくということは命の大切さを学ぶと共に、やがて大人になった時、自分が生きている時間は命そのものだと分かると思います。

命を大事にするということは時間を大切にするということ。人を大切にするということです。誰かと一緒にいる時間とは、命を共にしている時間だということです。命と時間は同じものだと気付かされた命の授業でした。