コラム
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2013/9/11
1324    形にすること

何度も取り上げている毎日新聞夕刊に掲載の「毎日ぽこあぽこ」。それでもまた取り上げます。「形にするということ」(平成25年8月19日)も楽しいコラムです。

これはコラムの作者である金益見さんが自主制作で、ミニアルバムを出したことについて書かれたものです。初めてCDを制作して感じたことを、とても豊かな言葉で記しています。「CDを聴く度、音楽に注いだ気持ちを思い出す。そしてこれから自分がどんなふうに変化しても、その時「ヘリカル(このCDのタイトルで、らせん状という意味です)」に詰め込んだものは変わらない。想いは形になると、その時の状態で存在してくれるからだ。目に見えるということは、何回も思い出せるということ。そして、思い出せるということはすごいことだと思う。消えて無くならないということにつながるからだ。」

なんて素敵なことなのでしょう。形になるものを制作したことのある人は、その作品はどんなものよりも宝物になりますし、ブランドや高級品よりも素敵に輝いて感じます。

僕の場合は、自分が書いた文章。自分のことが掲載された新聞などの記事。そして一般質問での質疑など。その時の自分の全てがこの中に詰まっています。「形になるものはなんかいい」。そんなことを感じます。どんなに熱く話したことなども忘れてしまうけれども、文字として残していたら、いつでも、その時のことや、その時の気持ちを思い出すことが出来ます。人は進化するものですから、同じ場所に留まることはありません。

でも過去が今よりも劣っているだとか、駄目だったということもありません。過去に感じたことや思ったことがあったので、今の自分が存在しているのです。人は単に成長しているのではなくて、何を思い感じたかによって成長しているのです。

旅をしていない。映画を観ていない。絵画を鑑賞していない。音楽を聴いていない。言葉で伝えていない。誰かに優しくしていない。そんな記録に残せないような過去だけが大きく存在しているのであれば、人は成長していないと思います。

僕の場合は学生時代のノートや日記、若い頃に上司に直してもらった文章、アメリカ日記、司法試験のノート、一般質質問の原稿、コラムやみっつの出来事で書き記した文字は、形にしているものです。

とても未熟で若い文章で読み返すのは恥ずかしいのですが、その時の最高の自分を表現しているものであり、その時の気持ちが込められていることに違いありません。形に残すものはその時の最高の自分が詰め込まれています。

余力を残して文章を書く人やCDを制作する人はいないからです。今回は手を抜いて記録するけれど、次の機会があればしっかりと書こうと思う人はいません。今、手を抜いてしまうと次はないからです。手を抜いた形に残るものが評価されることはありませんし、次の機会はないからです。

本会議の一般質問は、その課題に対して常に最高の調査と準備を行い、ストーリーを持たせて文字にしています。同じ課題を何度も取り上げることはありませんから、常にその時の最新の情報や調査事項など全てを詰め込んで原稿に仕上げます。大事な情報は後に残しておこうという考えはありません。そんな形として残っているものは最高の自分の記録です。

やはり形にするという作業は楽しくて、後になっても思いださせてくれる宝物です。