コラム
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2013/4/10
1233    一日一生

平成25年3月現在、91歳の西原さん。大きな声で話をして、年下のデイサービス利用の皆さんを慰問して元気付けています。会話は大きな声でしなければ、コソコソ話をしていても元気にならないと励ましています。西原さんの声はデイサービスの部屋中に聞こえていますから、皆さんに聞こえデイサービス利用者に元気を与え続けています。

ある女性は何年間も足が痛いと訴えていました。西原さんは「足が痛いと思っているからずっと痛みがあるのです。足が痛いと思わないで、「あしがいたい」の「し」の文字を「り」の文字に置き換えて「ありがたい」と思いなさい。そうしたら足の痛みはなくなります」と何度も伝えていました。何日かするとその女性から「足の痛みが消えました。痛みに対してもありがたいと思うことで痛みが消えました」ということです。

西原さん曰く、痛みとは節のことです。自然界のものは節から新しい芽が吹き出します。痛みは人にとって節目であり、身体の痛みは自分に何かを伝えてくれていると思うことで、節目から新しい命が発芽しようとしているのです。痛いと思うと新しい芽は育つことなく枯れてしまいます。消極性は新しい生命を枯れさせてしまうのです。人生はあくまでも積極性を持たなければいけません。

その積極性を西原さんは平成25年の目標に掲げています。それは一日一生です。今日の自分の仕事を、24時間前向きに行うことを目指しています。積極性が明日に向かって進むことにつながることを知っているのです。一日を一生として生きるためには、やり残すことがあってはいけません。「もう91歳なので明日はどうなっているか分かりません。自分にやれることは誰かのお役に立つこと。生まれてから91歳まで常に人様のお世話になって生きてきました。その借りを返すことが今日一日です。赤ん坊の時、オムツを自分で替えられることのできた人はいません。大人になっても自分ひとりでは何もできないのです。だから自分に出来ることは小さなことかもしれませんが、人様のためになることをしたいのです。人に喜んでもらえることをする。それが一日一生です」。

自分のためではなくて、人のお役に立つことを実践することが一日一生の意味なのです。一生、人の助けを受けて生きている限り、自分も人の役に立つことを行うことが使命なのです。一日は人に助けてもらっている一生のようなものであり、一生はそんな小さな一日の積み重なりなのです。

平成25年の目標は一生一日ですが、平成24年も目標を掲げていました。その目標はこれまでお世話になった妻の履物を揃えることです。履物を揃えるというのは、簡単なように思っているのですが決して簡単なことではありません。玄関、トイレの出口など奥さんが履物を脱いだ場所の履物を、履きやすいように揃えることを目標にしてから2年間、それを続けています。お世話になった奥さんのためにできることをしたいと思い、この目標を掲げて行動を継続しています。パートナーは自分の足りないところを補ってくれる存在です。これまで自分のために尽くしてくれたことへの感謝の気持ちを改めて持ち形にして表すこと。出来そうで出来ないことです。

履物を揃えること、人様のお役に立つこと。91歳にして悟った人生の目標は簡単なようで難しい、私達にとっても課題です。