コラム
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2012/7/5
1070    入院初日(平成24年6月28日)

何としても生きて欲しい。絶対に生き抜いて欲しい。それだけを思っています。初めて入る集中治療室。医師の力で生きる力をもらっているのです。呼吸器、点滴、身体中に走っている命を支える線、人の尊厳について考えさせられますが、命を守ることは何よりも尊いことだと知ることになります。

71と50まで低下していた血圧が、120と80まで戻りました。顔色が良くなり嬉しくて堪りません。普通のことがこれだけ嬉しいことだと、心と気持ちで感じます。何があっても「頑張って」と祈るばかりです。昭和6年1月6日生まれの81歳、最後の時には早過ぎます。機械音の鳴る集中治療室の部屋、生命維持装置のようなものに生かされているような気がします。

ロンドンオリンピックを観て欲しいですし、紀の国わかやま国体も直接見て欲しいです。そして映画好きの父親と一緒にもう一度、洋画を観たいなぁ。子どもの頃に見た洋画。「007死ぬのは奴らだ」、「タワーリング・インフェルノ」、勿論、大好きな思い出の映画「がんばれベアーズ」も。もっともっと沢山の洋画を観たのに思い出せないなんて。こんな大切な思い出を思い出せないなんてどうかしている。

子どもの頃は、とても厳しくて怖かった父親。テレビドラマのように、怒ると卓袱台を引っくり返して、夕ご飯が食べられなかったことは何度もありました。母親が畳の上に散らばったご飯とおかずを掃除している場面が浮かんできます。怒ると本当に怖かった。でも何で怒っていたのか分からない。元気になって、その理由を教えて欲しい。聞いておけば良かった。

小学校の時、自転車に乗れなくて補助輪で走っていた時。「補助輪を外さないと自転車に乗れないぞ」と言って、補助輪を外し「後ろを持っているから走ってみろ」と言われて、走ったことがありました。父親が荷台を持ってくれていると思っていたのですが、途中で気になって後ろを振り返ると父親は元の場所に立っていました。「アッ、持ってくれていない」と思って数メートル先で転倒しました。

その時、「自転車を支えていなくても走っていたぞ」と言ってくれました。そうなのです。自転車がこける瞬間まで、補助輪を外して一人で走れていたのです。そう思って再び自転車に跨ると、今度は一人でどこまでも走ることができました。それ以来、自転車で転倒することはありません。荒療治ですが、自立するためには突き放すことも必要だったのです。

補助輪に頼っていては、いつまで経っても自立できません。言葉ではなく実践で、そんなことを教えてくれたのです。

近所の空き地でのキャッチボール。構えたミットに投げないと怒られました。コントロールに気をつけて構えたところにボールが吸い込まれたことを思い出します。気持ち良く、自慢げな表情をしていた自分がいました。父親とのキャッチボール、本当に楽しかったなぁ。そして父親のファーストミットとてもボロボロで友人に見せるのが恥ずかしかったけれど、大切に使い込んでいたミットでした。今はどこにあるのかなぁ。