コラム
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2012/7/4
1069    入院初日(与えられている命)

自分の命は自分のものだと思っていますが、本当は与えられたものなのです。それを確実に意識するのは、身内に死が迫っていると感じた時です。人の死に向き合う瞬間の悲しさ、無常さ、そして言葉として出てこない涙、人の人生とは何なのか分からなくなります。

この悲しみに何の意味があるのか。自問しても分かりません。ベッドで懸命に話しをしている父親の顔を見ていると、つい涙が浮かび、熱い液体が頬を伝います。平生を装うとしても、気にした分だけ涙が溢れます。いつものように話しかけてくれる父親に対して、信じたくないことですが、もしかしたら最後の会話かもしれないと思うと胸が痛みます。

話し掛ける言葉は「大丈夫だから」、「しんどくない」だけです。でも心から発する言葉ですし、それ以上の言葉は出てきません。死に際しては、難しい言葉、飾った言葉は出てこないのです。素直な言葉、簡単な言葉が出てくるだけです。

「大丈夫だから」が本当になるようにと、あちらこちらに祈ります。神様、ご先祖様、そして命を与えてくれて創造主にも祈ります。「どうか命を守って下さい」と。「命を守って下さい」と繰り返すだけです。簡単な言葉に宿っているものが、本当の心だと思います。危機に直面した時、出てくるのは子どもの時と同じように親を慕う素直な言葉であり、親と子どもに戻る瞬間です。親を思う気持ちが心の底から溢れてきます。

一人で大人になったように思っている自分が情けなくなります。この命は父親と母親から与えられたものであり、預かっているものなのです。一人で自然に誕生した命ではありません。両親がいて自分がいる。こんな簡単なことを忘れていますし、感謝する気持ちも忘れています。

命は両親が与えてくれたもの。命は受け継いでいるものです。かつて若くて力強かった人の命が、こんなに弱々しく消えて良いものなのでしょうか。すっかり張りがなくなっている手と足に触れると悲しくなります。父親のおでこに触れる日が来るなんて思いもしませんでした。怖い存在が弱い存在になっている事実を信じることはできません。いつまでも父親は強い存在でいて欲しいと思いますし、いつまでも後ろで支えていてくれるものだと思っています。

父親の姿をじっくり見たことは少ないことに気付きます。使ってきてひびが入った爪。

壁などに当たり内出血をしている腕、細くなっている足、赤く腫れている首筋、いつの間にか弛んでいるあご、とても悲しくて言葉になりません。

それでも「大丈夫だから」と「しんどくない」を繰り返すだけです。ベッドの上で、笑顔で応えてくれることがこれだけ嬉しいことだと知りました。父親と会話をすることは、こんなに嬉しいことだったのです。こんな嬉しくて大切なことを疎かにしていた自分を悔いています。

自動車で走りながら、前が霞んだ視界で心から「全然家に行かなくて本当にごめんなさい。ごめんない」と繰り返すばかりです。平成24年6月28日、木曜日。時よ、止まって下さい。そして子どもの時と同じように「おとうちゃん」と一人で小さな声を出しました。