4.太田城水攻め堤跡の県指定文化財への新規指定について
令和5年5月、「太田城史跡 顕彰保存会」が主催する「太田城水攻め438年祭」に参加しました。コロナ禍の影響で4年ぶりの開催で、太田城水攻址の小山塚で当時の太田城主の太田左近の法要が執り行われました。
1585年、羽柴秀吉の水攻めによって滅ぼされた当時の太田城主が太田左近でした。この水攻めで秀吉軍は、高さ約4メートルから6メートル、総延長約7kmに及ぶ堤防を築造したと伝えられており、秀吉の「三大水攻め」のひとつとされています。
地元の皆さんが太田左近をお祀りし、昭和44年から継続して毎年、法要を行ってきました。地元からは、以前より「地域の歴史と文化を護るため太田城水攻めの堤跡を保存して欲しい」との要望があり、これまで県議会教育委員会として来迎寺と堤跡の視察や、地元との懇談を行ってきた経緯があります。
今年4月21日、和歌山県教育委員会では、「太田城水攻め堤跡」を和歌山県指定文化財に指定しました。この「太田城水攻め堤跡」は私有地ですが、地元の理解をいただき指定してくれました。
これまでの働きかけが実った嬉しい指定であり、地元として県と和歌山市との連携により、維持、管理、活用に向けた取り組みを目指していくことになります。
これまで多くの人が「太田城水攻め堤跡を和歌山県として維持管理して後世に伝えて欲しい」と願ってきました。冊子の発行や説明会などの活動を行ってきた方の中には、既に故人となられた人もいますが、この報を喜んでくれていると思います。
この地に太田城があったことや、秀吉による水攻めの歴史などを語り継いでいる「太田城史跡 顕彰保存会」、そして地元の連合自治会の方々は「太田城の水攻めの歴史は、地元で継続して語ってきましたが、ようやく県指定文化財として認められたことは喜ばしい限りです。秀吉の三大水攻めのひとつとして、太田の歴史、太田の文化、太田の宝を後世に伝え、残していくのが私たちの使命と考えています。これからの活動にも力が入ります」と話してくれています。
太田城のことは、平成28年の6月議会でも一般質問をしました。
そのとき教育長から「太田・黒田遺跡周辺では、昭和43年以来、80件近い発掘調査が実施され、考古学的データが蓄積されています。その調査成果において9地点で太田城にかかわる堀が確認されている」ことから「学術的価値は高い」と答弁をもらっています。
そんな経過もあって今回、「太田城水攻め堤跡」が和歌山県指定文化財に新規指定されたことにつながったと思っています。
そこで指定の理由や、地元と連携した今後の保存、活用の方法について、教育長にお尋ねいたします。
太田城水攻めは、羽柴秀吉の天下統一に向けた「日本三大水攻め」の一つとして知られる戦いです。今回、県史跡に指定した堤跡は、水攻めで雑賀衆による自治が終わり、豊臣・徳川の治世のもと、和歌山城とその城下町の建設が始まった、和歌山における歴史の転換点となる出来事のあった重要な場所であります。
議員ご指摘のとおり、これまでも長年にわたり太田城史跡顕彰保存会が地域内での勉強会や語り部ウォークなどを実施し、保存・活用に尽力されてきたところです。今後は和歌山市が主体となって堤跡を適切に管理していくとともに、堤跡周辺の案内板の整備等を進めることにより、さらなる活用促進が期待されます。
県としましても、昨年度の紀伊風土記の丘の特別展において、太田城水攻めをテーマにしたシンポジウムを開催し、好評を博したところです。今後も歴史的価値の高いこの遺構を、より多くの人に知っていただき、未来に継承していけるよう和歌山市と連携して取り組んでまいります。
【まとめ】
太田城は秀吉の水攻めによって滅ぼされたので、紀州、いや紀伊の国は秀吉に平定されることになりました。しかしそれ以前は戦国時代にも関わらず、紀伊の国は有力大名のいない特殊な地域でした。有力大名が納めたのではなく、共和制とも言える住民自治が成り立っていたのが和歌山なのです。戦国時代に住民自治によって地域を治めていたことは極めて珍しく、政治的には先進的な土地だったのです。和歌山県は戦国時代には先進的な地であり、住民の代表で政策を決定する合議制の場所だったようです。太田城に関して専門家と話をしている中で、和歌山県の凄さを感じました。
もう一点です。今回は春の統一地方選挙の後の質問なので、皆さんに関心を持ってもらえるまである四国新幹線と紀淡海峡ルート、高齢社会における公共交通、太田城水攻め後の県文化財指定の問題を取り上げました。知事がリーダーとなり、これらの諸課題に対して政策を推進してくれることを期待しています。
ご清聴ありがとうございました。