令和3年6月定例会一般質問 / 質問内容

2.大和街道について

一般質問

和歌山県誕生の苦労や歴史を知らなければ150年といっても嬉しさも感じないだろうし、お祝いのしようもありません。故郷の歴史を知ることで愛着と誇りを感じるはずですから、和歌山県誕生に秘められた歴史を知ってもらうこと、そして故郷教育機会を持っていただきたいと思います。

さて、和歌山市には身近なころに歴史の跡がありますが、和歌山市本町一丁目1番地にある「道路元標記念碑」もその一つです。

江戸時代、京橋は和歌山城の表玄関で南には城内の三の丸に通じ、北詰からは本町通りを経て諸国へと街道が通じていました。このため和歌山城から「何里」という表現は全て京橋北詰からの距離でした。

この橋が架かっている市堀川は江戸時代には和歌山城の外堀であった場所であり、京橋は城内と城外の境界でもあったわけです。

つまり江戸などから紀州を目指す人達はこの京橋を目指し、紀州から江戸に向かう人達は京橋から最初の一歩を踏み出していたのです。和歌山城を中心とした街の起点に、そして終点となった場所が京橋なのです。

例えば参勤交代もこの地点を通り、江戸から紀州に帰ってきた行列も、この地点を目指して帰ってきたのです。江戸時代の紀州の原点ともいえる場所が「道路元標記念碑」ですが、現在は訪れる人も少なく、注目されることも少ないことを残念に思います。

先日、この場所の清掃を行いましたが、雑草が茂りゴミが散らかっている、「道路元標記念碑」の前に自転車が放置されているなど、故郷の原景を大事にしていない気持ちが表れていると感じました。

紀州から旅立つ人達はこの場所に立って、これから行く江戸の町を想ったことでしょうし、故郷に帰ってきた人達は、この場所に辿り着くと故郷に包まれて安堵したように思います。

当時の「紀伊国名所図会(きのくにめいしょずえ)」を見ると、行き交う人も多かったことを示す描写がありますし、この交通の要所は商売人の町であったことも伺い知れます。

この街道に関して、和歌山県発行の「わかやま歴史物語100」から一部を引用します。

「紀ノ川に沿って、東西に延びる大和街道。奈良時代、都が置かれていた大和から紀伊、淡路、四国を結ぶ官道として整備された南海道の一部にあたり、人びとの往来はもちろん、歴代天皇の行幸、紀州藩主の参勤交代などにも利用されてきました。

多くの歴史遺産が点在する大和街道は、ファンならずとも胸躍る歴史の宝庫。全国津々浦々に古い街道は数あれ、大和街道を歴史の宝庫と呼びたくなるのは、歴史遺産が多いということだけに留まりません。

数の多さに加え、万葉から江戸の時代に至るまで時間的な幅も大きい。つまり街道とその土地の歴史を重層的に見られることこそ、大和街道の魅力」と紹介されています。

観光に携わっている方から「コロナ禍にあってウオークを楽しむ人が増えている」、「一人ウォーキングで案内を訪れてマップを要望されるウォーカーが増えている」などの話を伺いました。これらのウオークを楽しむ人を対象とした「大和街道ウオークマップ」を作成することもおもしろいと思います。

先日、和歌山市の京橋から一里塚辺りまでの道のりを観光案内の方に案内してもらいながら歩きました。これまでこの道が「大和街道」だと意識して歩く機会はなかったものの、普段の行動範囲にある道が「歴史街道だったんだ」と思いとても新鮮でした。日頃は意識していない「歴史の道」ですが、その歴史を知ることで、和歌山県が誇るべき「歴史街道」になるかも知れません。

「熊野古道」がまだ世界遺産に認定されていなかった当時は、梅原猛氏や西口勇元和歌山県知事の著書で学びましたが、知識を得てから歩くとその価値を理解することができます。

今では「熊野古道」は県や市町の粘り強いPRや情報発信によって、その由来や価値が容易に分かり、世界に誇る「歴史の道」「信仰の道」の地位を不動のものにしています。

この「大和街道」に関する調査は、昭和55年に和歌山県教育委委員会が「南海道・大和街道他」のタイトルで「和歌山県文化財研究会」として報告書を編纂していて、そこで「歴史の道」としての意味付けがなされていると聞きました。

京橋から旧高野口町名古曽の地にある十里松まで、陸奥宗光伯がまだ牛麿(うしまろ)と呼ばれていた頃に、父宗広の田辺城幽閉に続いて処払いにあったのですが、その十里松の跡地であり、今は五代目になる松の木を十里松顕彰会会長である西岡裕(ひろ)宣(のぶ)さんが管理して下さっています。

まだ幼い10歳までの牛麿が京橋からこの道を通っていたと思うと、ここでも観光につながる物語を記すことがでるのではないでしょうか。

質問1:「大和街道」を観光資源として活用することについて

大和街道の始発点であり終着点の京橋は、今で言うところのターミナルですから、多くの人が行き交い、人の数だけ物語があったはずです。交通の要所ですから、歩いて周れるまちなかに紀州の歴史がひっそりと佇んでいます。

この道は江戸時代の生活の拠点であり、活き活きとした姿があった場所であり、経済交流、文化交流、そして維新へとつながった道です。歴史の跡を残すと同時に文化も残さなければ、当時の人達の思いや志を知るすべはありません。

この大和街道を、歴史を楽しみながら「街歩き」ができる道としてPRし、観光資源としての活用に向け、今後、街道沿いにある市町と連携して取り組んでは如何かと思いますが、商工観光労働部長の答弁をお願いいたします。

答弁者:商工観光労働部長【観光振興課】

紀ノ川に沿って東西に延びる大和街道は、奈良時代に整備された南海道の一部にあたり、江戸時代には参勤交代や紀州藩領である三重県の松坂城などを結ぶ重要な街道として栄え、京橋を始点として、街道沿いには、国指定史跡の四箇郷一里塚や旧名手宿本陣をはじめ、妹山・背山、隅田八幡神社、真土山などがあります。

さらに、周辺には、根來寺・粉河寺といった名刹、大畑才蔵ゆかりの「小田井用水路」など観光資源が豊富にあります。

また、街道沿いは、果樹王国和歌山を代表する産地であり、旬のフルーツを味わうカフェや、購入できる農産物直売所があり、歴史・文化に触れながら楽しく「街歩き」することができます。

現在、「わかやま歴史物語」で、春林軒といった華岡青洲ゆかりの地と旧名手宿本陣や、万葉集で詠まれた歌碑や紀伊国と大和国の国境にある飛び越え石といった万葉歌人の足跡が残る橋本エリアなどを周遊できる複数のモデルコースを設定し、紹介しています。

また、最近実施したスタンプラリーでも、多くの方に参加いただいたところです。

今後も、大和街道の「街歩き」を楽しんでいただき、周遊促進に繋がるよう、関係市町と連携して観光地の更なる魅力アップを図るとともに、雑誌やメディア等を活用した情報発信等にも取り組んでまいりたいと考えております。

大和街道沿いには古民家を改造したカフェやレストラン、お茶を楽しめるお店がありました。車で走っていると分からないようなお店が出来ていました。ウォーキングをしてカフェで一休みする、そしてまたウォーキングするという楽しみ方ができますし、街道は和歌山線と並行していますから、一定の区間、ウォーキングをして和歌山線に乗車して戻るという歩き方もできます。和歌山線や貴志川線を活用しながらのウォーキングを楽しめるコース設定ができると思いますので、ウォーキングマップの検討をお願いしたいと思います。