1.故郷の偉人顕彰について
こんにちは。議長のお許しをいただきましたので、通告に従って一般質問を行います。
わが故郷は全国に誇れる偉人を数多く輩出していますが、その功績があまり知られていない人物も存在しています。
コロナ禍の今こそ伝えたい人物が、江戸時代後期の医師で、イギリスのエドワード・ジェンナーによる種痘開発から半世紀遅れたものの、日本で初めて国産天然痘ワクチンの開発に成功した小山肆成です。
小山肆成は「天然痘は治療よりも予防すべき」と考えて、医学の先進地である京都で研究に没頭します。ワクチンの概念がなかった時代にあって、牛痘からワクチンを作り出した発想と行動、忍耐は素晴らしく、それが成功するまでに8年の歳月を要していることは特筆です。
しかし当時の人は「牛痘を摂取すると牛になる」と思い接種してくれませんでしたが、諦めることなく天然痘に効果があることを証明していくのです。新型コロナウイルス感染症との戦いの最中にある現代、小山肆成氏の諦めない姿を学び発信すべきです。
人類が唯一ウイルスに勝利したのが天然痘との戦いですから、わが国でそのきっかけをつくった小山肆成は故郷の偉人として語られるべき人物です。
ウイルスの存在が確認されていない時代にあって、予防としてワクチンを開発したこの医師の進歩性や先見性は素晴らしいと思いますし、まさに郷土が誇るべき医師だと思います。
小山肆成は西牟婁郡日置川町久木村出身です。その出身地にある久木小学校は昭和45年に安居小学校と統合していますが、この小学校では昨年、学内文化祭で「小山肆成物語」の劇を実施するなどの顕彰の取り組みを行っています。これが故郷教育だと思います。
今年になってNHKの番組で取り上げてくれたことは大きな励みになるもので、故郷の医師に脚光があたったこの機会を、ふるさと教育に生かすべきだと考えます。
日本で初めて国産天然痘ワクチンの開発に成功した小山肆成ですが知名度は低く、その功績もあまり知られていない、むしろ全国的には無名に近い存在だと思います。
故郷の偉人を敬い、その功績を学ぶために、小山肆成を始めとする故郷の偉人教育の今後のあり方について、教育長からお答えください。
まず、小山肆成をはじめとする本県の偉人教育についてでございます。
天然痘を予防するワクチンの開発という医学の進歩に大きな役割を果たした本県が誇る先人の1人である小山肆成をはじめ、本県には世界に誇る先人が数多くいます。
県教育委員会では、すべての中学生に一人一冊及びすべての学校に配布しております、先程知事が申し上げましたふるさと教育副読本「わかやま何でも帳」において、本県にゆかりのある先人を掲載し、各教科等で活用しているところでございます。また、県独自の道徳教科書である小学校版「心のとびら」には、小山肆成についての業績も取り上げており、中学校版「希望へのかけはし」とともに、先人の生き方を通した教材として道徳科の授業に活かしています。
こうした和歌山にゆかりのある先人の功績を学ぶことで、児童生徒に、ふるさと和歌山を誇りに思う心情を育ててまいります。
続けます。幕末に解体される寸前の紀伊藩、藩主を青年時に救い、壮年時には明治政府の要人となり最重要課題であった不平等条約を改正し、私たちの郷里和歌山県、日本国を守った陸奥宗光外務大臣。わが国の独立を確立し、病にて他界した陸奥宗光は陸奥宗光伯(伯爵)、陸奥宗光公と讃えられ、外務省と和歌山市岡公園に全身像が建立されています。
ここで、敢えて新たな知見を加えて“陸奥宗光伯が生きた時代”を振り返ります。幕末時の世界は、欧・米・露の列強諸国が競って植民地を網羅していた“帝国主義時代”でありました。列強諸国以外で植民地でなかったのは、アジア・アフリカ大陸では日本とシャム王国(タイ王国)だけでした。
幕末は我が国を植民地にするがために列強諸国が押しかけ、黒船を始めとする圧倒的な軍事力を見せつけて不平等な条約を交わし、我が国の国土を揺るがしていた時代だったのです。
国内では、慶應2年12月25日、孝明天皇が崩御され、皇太子睦仁(むつひと)親王は年が明けて慶應3年1月9日に践祚(せんそ)(皇位を受け継がれること)、慶應4年8月27日に即位の礼(天皇が践祚の後、皇位を継承したことを国内外に示す儀礼)が成されました。明治天皇の御世(みよ)の始まりです。
そして9月8日には元号が明治に改元されます。大政奉還、王政復古の大号令、鳥羽伏見の戦い(別名…戊辰戦争)と幕末から近代へと移り変わる明治維新がスタートした訳です。
明治元年の末、薩長土肥を中心として形成された明治新政府は、鳥羽伏見の戦いの処理において徳川親藩(しんぱん)である紀伊藩を窮地に追い込みます。藩主茂承(もちつぐ)は束縛され、藩への圧力による解体を防ぐために藩老たちは新政府の高官となっていた青年 陸奥陽之助に助けを請います。
陽之助の父 伊達宗広は紀伊藩の藩政を動かし、財政を発展させ藩を富ませた重臣であり、かつ国学者としても高名な存在でありましが、対立勢力で幕府に近い立場でいた紀伊藩江戸付家老水野忠央(ただなか)によって、陽之助が9歳の時に父宗広は失脚され、田辺城幽閉の身とされるのです。翌年、家族は高野山麓(ふもと)に所払いを受け、一日の食の為に勤労雑務の生活を強いられます。
武芸を携(たずさ)れない身の上に負けず、勉学に励み独学を続け、15歳になった陽之助は九度山・高野山周囲の方々の支援を受け、江戸に出してもらい苦学蛍雪し、その後20歳で勝海舟の海舟塾及び神戸村海軍操練所で坂本龍馬たちと航海術や万国公法(国際法)を学び、亀山社中・海援隊時代に英語や商法を習得し、龍馬亡き後は英国公使パークスの意を新政府の岩倉具視に伝え、王政復古の大号令を実現させます。
その実力から新政府開設時に外国事務局御用掛として活躍し、会計官(大蔵省の前身)判事で実績を上げ、大阪府権判事となって初代兵庫県知事の伊藤博文と盛んに往来し「国家将来の大計」を協議していた25歳の時に、紀伊藩主茂承の懇願を伝えに来た藩老の話を受けいれます。
紀伊藩主茂承救済を求められた陸奥伯は政府重鎮の岩倉具視に「紀伊藩を新国家形成、郡県制度の“ひな型”に育てる」ことを提案し、了承を得たことによって茂承は開放され、藩への圧迫は止まり、紀伊藩解体の危急を救いました。
その後、版籍奉還を経て和歌山藩となった我が県を、陸奥伯は津田 出や北畠道龍(きたばたけどうりゅう)たちとともに兵制度をはじめとして産業、生活様式などの藩政改革を行い、新国家形成のモデルとして和歌山を近代化させ、新しい和歌山の誕生に深く関わりました。
このことで、徳川親藩であった尾張藩、水戸藩、会津藩は廃藩置県後に県名が変わっていますが、和歌山藩は、県名を“和歌山”県として残されたのです。
これだけでも歴史に残る功績ですが、活躍の場は外交へと続いていきます。
当時の我が国は列強諸国から対等国とは見做されず、日本は裁判、関税について自由権を持たない、不平等を甘受しなければならない後進国にされていたのです。
時を経て、明治21年6月15日に外務省米国特命全権公使としてワシントンに着いた陸奥宗光伯は11月30日に大国メキシコと互いに裁判、関税について自由権を持ち、両者を最恵国と認め合う我が国最初の対等(平等)条約を結び、列強諸国が敷いた策謀の投網(とあみ)に大穴を開けたのです。
そして、外務大臣時代の明治27年7月16日、イギリスとの間に締結されていた「不平等条約」の改正に成功します。これを機に、在任中に欧・米・露の列強15か国と交わされていた不平等条約すべてを改正し、明治政府の第一課題であった条約改正を成し遂げ、我が国の“独立”を守ったのです。
教科書に載っている「不平等条約を改正した外務大臣、陸奥宗光」と記されている由縁(ゆえん)であり、欧・米・露列強による帝国主義時代の流れを変える歴史を刻んだのです。
私達の和歌山を救い、近代国家の礎を築いてくれた故郷の偉人の功績を称え、後世に引き継ごうと建立されたのが、岡公園の「陸奥宗光先生乃像」なのです。繰り返しますが、当時の市井の方々や有識者が、伯の精神と志を後世に引き継ごうとしたのがこの像なのです。
そして昭和46年8月24日(陸奥宗光伯の命日)に、岡公園「陸奥宗光先生乃像」建立除幕式が「和歌山県政100年・和歌山市政80年」の記念式典として実施されました。
当時の和歌山県知事、和歌山市長を始めとする関係者が岡公園に集まり、建立の趣旨から、故郷の外務大臣の功績を称え、その精神を未来に伝えていくことを誓い合ったと思います。
建立の意味は偉人とそれを称える発起人の名前を歴史に記すことであり、未来につなげる誓いとなるものです。
明治政府最大の課題であった不平等条約改正に務めた外務大臣の精神を誇りに思い、昭和46年の建立に関係した県民、市民の皆様や政治家、企業の方々は未来を生きる子ども達のためにこの像を建立したのです。
来る8月21日に「和歌山県誕生150年・和歌山市政130年」を記念して「陸奥宗光先生乃像」建立50周年記念事業として、記念講演会と記念式典を行う予定があります。
今回の主催は「陸奥宗光外務大臣の功績を教育に活かす実行委員会」が担当します。
和歌山県と和歌山市、そして県、市の教育委員会には後援をいただいていますが、主催者と同じく故郷の偉人を称え、その功績と志を引き継ぐ気持ちを持ってくれての後援だと思います。
建立から50年、陸奥宗光伯の生き様や志を、私達は伝えることを怠ってきたように思います。全国における学校教育であまり触れていないこと。わが県でも陸奥宗光伯のことを語れる人が少ないこと。偉人としての名前が全国に広まっていないことなどからそう思うのです。
幕末の坂本龍馬、西郷隆盛は言うに及ばす、同じ時代の他の偉人と比べても知名度は低いように思うのです。
地元をみたところ「顕彰館」や学習できる記念館がないこと、例えば教育委員会発刊の外務大臣偉人伝などの読み物がないなど、これまで訪問した偉人の記念館を有している県や市と比較しても、偉人の功績を伝える環境が整っていないと思うのです。
当時の知事や和歌山市長、そして関係者たちの精神を受け継ぐため、今回の式典の場で同じ思いを共有するつもりです。歴史の延長に現代がありますから、歴史を引き継がないで将来を語ることはできません。歴史から学ぶとは、身近に故郷の偉人がいればその功績を学び、生き様と志を将来につなげることです。
もうひとつの思いがあります。この記念式典には、外務省大臣官房総務課長(当時)の和田幸浩(ゆきひろ)さんも出席してくれる予定でした。和田さんは和歌山県出身で外務省のエースと呼ばれた方で和歌山県の誇りでした。特に北米第一課長時代の活躍は郷土の誇りというのに相応しいものでした。
令和3年1月2日、突然の訃報の知らせを受けたのは昨日のことのようです。
昨年、この企画の話をして出席依頼をしたところ、故郷のために出席を快諾してくれて講演もしていただく予定でした。外務省の和田さんは故郷の外務大臣が成し遂げた偉大な功績と志を熟知していますから、快く出席の返事をしてくれたのだと思います。
この記念式典においては和田さんの志と功績も共に称えたいと思います。
今から50年前の「陸奥宗光先生乃像」建立除幕式かつ「和歌山県政100年・和歌山市政80年」の記念式典の記録が無く、今では分からなくなっています。今回は実施することが記録に残るように、ここに取り上げました。
記念講演では「陸奥宗光 外務大臣の築いた歴史」を外務省外交史料館「日本外交文書」編纂室長 冨塚一彦氏から、陸奥外相が成し遂げた業績がわが国にとって外交上どのような価値あるものか史料から読み解いていただき、外務省に今も語り継がれているエピソードなどを講話していただきます。
また「宗光と龍馬が夢見た世界」と題するシンポジウムでは、外務省の冨塚室長と坂本家十代目から、宗光・龍馬両雄に成り代わって熱い議論を交わしていただく予定です。
この日の午前中に「令和3年度 一般社団法人全国龍馬社中 近畿北陸ブロック会議 和歌山大会」も同時に開催することになりました。「龍馬社中」の参加者はそのまま「記念講演会と記念式典」に参加、翌日は和歌山電鐵貴志川線に乗車して、紀伊の国一之宮神社などを訪ねる「陸奥宗光伯と和歌山名刹(めいさつ)三社参り」に参加してくれる予定です。
和歌山県の偉人の式典に、陸奥宗光伯と子弟関係にあった坂本龍馬の会の皆さんが参加してくれる広がりをもった式典になります。
ご存知だと思いますが「全国龍馬社中」の全国大会ではどの開催県でも知事と市長が出席してくれるものであり、全国から500人から1,000人以上が参加する大会規模となっています。
来たる8月21日は、近畿北陸ブロックに属する龍馬会代表者の集いのため、またコロナ禍で人数制限を行うために比較的小規模ですが、龍馬を愛する皆さんがわが和歌山県に来て建立記念式典でお祝いしてくれることは、坂本龍馬の意志を引き継いで新国家を目指した陸奥宗光伯、そして和歌山県を全国に知らしめる絶好の機会となります。
この「和歌山県誕生150年・和歌山市政130年」を記念した「陸奥宗光先生乃像」建立50周年記念式典をどう思うのか。故郷の子ども達に対してのメッセージも伝えて欲しいと思います。知事の答弁をお願いいたします。
陸奥宗光は、彼が存在していなければ欧米諸国と対等な近代国家日本が成立するのははるかにおくれていたと言われるほど、我が国外交史上において不滅の名を残す人物でありまして、これがまた、和歌山出身だということで、偉大な郷土の先人の1人だと思って大変誇りに思っております。
外務省本省の敷地内には、長い日本外交の歴史にも関わらずたった1人だけ銅像が建っているのでございますが、これが陸奥宗光さんでございます。和歌山県でも、過去何度かこの方を高く評価しようという動きが盛り上がったというのが何度もあるんですけれども、50年前に民間の有志の方々がたくさんお金を出されて、銅像を建立されたというのもその1つだというふうに思います。
最近では再評価の先鞭をつけたのは、就任以来の私ではないかと自負しております。偉人シンポジウムというのがあるんですが、ここで陸奥宗光を取り上げて東京で大変な方々のもとにシンポジウムを行いました。その時には、陸奥宗光の一族の岡崎家、これまた外務省の大先輩であるのですが、岡崎久彦さんに汗をかいてもらって、大変お世話になり、インパクトのあるシンポジウムができたと思います。
その後も同じようなシンポジウムを和歌山でたびたび県庁の主催で行っておりまして、何かきっかけがあったら陸奥宗光さんを顕彰するというのが私どもの最近の習いになっております。
これはうまくいっておりませんが、NKHの大河ドラマにも絶対に取り上げるべきだ、と言って何度か運動したのですが、これはうまくいきませんでした。
陸奥宗光は、明治2年から4年に紀州藩において、地租改正、四民平等、洋式軍隊、廃藩置県の構想をもって藩政改革を行ったわけでございまして、これは実は、明治日本国家の、もうとにかく色んないきさつがありますが、そういうふうに私は思っておって、「明治維新は和歌山モデル」と言って主張している訳でございます。
実はその後、よく調べますとさらにその視野と足跡は申し上げますと、立憲主義、民主主義まで踏まえていると、すごい人だと思います。
今申し上げたことを、もう一度申し上げますと、県では平成24年度に、「外務大臣就任120周年記念 陸奥宗光シンポジウム」というのをやりました。平成29年度には、「没後120年 陸奥宗光シンポジウム」というのをやりました。平成30年度には、「明治150年シンポジウム」、令和元年度には、「外交資料展 外交史料と近代日本のあゆみ」と、機会があるごとに陸奥宗光さんをいわば主役として顕彰をして参りました。
この度、民間の方々も盛り上がってくださって、「陸奥宗光先生乃像」建立の時みたいに皆さん盛り上がっていただいて、その50周年記念式典が挙行されるとのことでございます。50年の節目で有志の方々が集い、顕彰されることは誠に結構なことだというふうに思っております。
あえて言うと50年前の先達の方々も顕彰して差し上げたらいいのになあ、というふうに思っております。
今度は、子供たちに対する影響でございますが、和歌山は何もつまらない所なんだ、などと本当に知らなくて、または知っていても半ば自虐的に言う人が結構います。子供たちがそれを信じたら、誇り高い、気宇壮大な志を持った人間はなかなか生まれにくい、というふうに思います。
陸奥宗光を初めとした先人の功績を知るということは、ふるさとへの愛着や誇りにつながり、それが子供を大成させるもとになる、というふうに私は思いまして、ふるさと教育副読本「わかやま何でも帳」を作成して、学校教育の場でふるさと教育を今やっていただいているところでございます。
子供たちには、こういうものを使ってさらにですね、それから発展して自分で色々調べて勉強して、誇りをもって、それぞれの道で自らの勉強をして雄飛してもらいたいなあと、そんなふうに考えております。
和歌山市では「陸奥宗光伯銅像建立50周年」の取り組みを行っています。今年6月1日から8月1日まで、和歌山市立博物館常設展示室において「陸奥宗光と和歌山」を開催していますし、8月16日から8月24日まで、和歌山市役所1階市民ギャラリーにおいて、仮称、「陸奥宗光伯銅像建立50周年記念展」を予定しています。
また市民図書館では機運を醸成するため「陸奥宗光 書籍コーナー」のスペースを確保してくれています。今回、議場に持ち込んだパネルは、和歌山市教育委員会が作ってくれたものであり、企画展などの場でこの式典のPRしてくれています。
今年は和歌山県誕生150年ですから、「陸奥宗光先生乃像」建立50年の記念講演会や記念式典などの事業と連携した取り組みを検討して欲しいと思います。
この点に関しては環境生活部長の答弁をお願いいたします。
また本件に関して、教育者の観点から教育長にお答えをお願いいたします。
県では、和歌山県誕生150年を迎え、記念事業の準備を進めるとともに、その啓発にも力を入れているところです。
今回、「陸奥宗光先生乃像」建立50周年記念事業が有志の方々により催されると伺い、150年を祝う機運の醸成につながるものと期待しております。
県の記念事業においては、和歌山県の歴史を振り返る講演会や記録映像の上映、県内各地を巡回するパネル展などを考えており、その中で陸奥宗光の功績につきましても、大いに県民に紹介することとしています。
陸奥宗光先生の像についてでございますが、各学校では、子供たちが日頃からふるさとの先人や、その業績について学んでおります。
今回の「『陸奥宗光先生乃像』建立50周年記念」のような節目の機会をとらえ、その業績を見直すことは、偉業を風化させないこととともに、子供たちが先人についての見識を深めることができるよい機会となると考えます。
今後も、様々な機会に、本県ふるさとにゆかりのある先人について学び、ふるさと和歌山に誇りと愛着を持てるよう、ふるさと教育の充実に取り組んでまいります。
【参考「陸奥宗光伯銅像建立 発起人会」により寄付が募られて制作されました。寄付活動の発案者は日吉染業梶E日光染業梶E大日本晒染業且ミ長 川口正朋氏です。この組織体は銅像を作るための組織で、除幕式や記念式典を主催したかどうかはわかりません】