活動報告・レポート
2011年11月27日(日)
和歌の浦での発見
和歌の浦での発見
記者発表

国の名勝指定地域である和歌の浦の妹背山。ここにある多宝塔の地下室から経石とともに養珠院の遺髪が発見されました。このことについての記者発表がありました。和歌の浦での大きな発見だったことから記者発表の場に向かいました。

ところで今回の遺髪発見の元になっている妹背山の経石調査とはどのようなものかを記します。この目的については、妹背山顕彰会から引用させていただきます。

経石調査の目的。妹背山に建てられた多宝塔下の石室には、後水尾天皇および皇后の宸翰石が石函に納められ、併せて、養珠夫人、それに息子の紀伊初代藩主頼宣候により書写された経石並びに、諸王侯卿を初めとし、僧俗を問わず多くの人々により書写され、贈られた題目経石が数え切れないくらい埋納されています。そこには、紀伊徳川家が将軍家との繋がりを和歌浦の自然景観の中に視覚的に具現した歴史の彩が秘められてます。今回、海禪院の復元整備にあたり、その歴史的意義付けを行うため、多宝塔下地下室の経石を取り上げ調査し、養珠夫人の経石埋納の意義を明らかにし、和歌浦の歴史的景観保存とその活用を図ります。

なお、この調査は海禪院復元整備に当たっての勧進に大きな意味を持ちます。それは、これまでの紀州・和歌浦の歴史だけでなく、日本の歴史の中でその意義が大きく注目されるからです、とされています。

この発掘調査は平成15年から実施してきました。今回はその発掘作業の中で徳川家康の側室である養珠院の遺髪が発見されたもので、紀州徳川家にまつわる和歌の浦の宝を見つけたことになります。

今回の遺髪は、徳川頼宣が母養珠院に関しての記述があることから関係者が間違いないと判断して発表したものです。その記述とは身延山短期大学元学長の宮崎英修氏が残した文章の中にあります。「頼宣はまた母の追善のために寿量品を書写し、翌三年、江戸紀州邸の養珠院の住まった館を本遠寺に移し寄せ、自国和歌山の和歌浦に養珠寺をたて、多宝塔を建立してその遺髪をうめました」というものです。

これから学術的に遺髪の価値について議論されると思いますが、地元の私達にとっては、またひとつ和歌の浦の新しい宝物を受け取った感じです。

写真展
写真展

らくらく写真教室が主催する写真展に行ってきました。今年が6回目の写真展となりますが、会員も増えその分個性的な構図が増えていました。指導する西山先生の写真は色が鮮やかなのですが、生徒の皆さんの写真からも色彩を強く感じました。春の桜からは湧き出るような暖かさと生命の息吹を感じ、那智の火祭りの炎からは熱さを感じました。写真を通して温度が感じられるのですから、その色彩感は相当のものであるといえます。

桜の花びらには風が吹くと舞い散るような感じがあり、那智の火祭りでは今にも炎が迫ってくるような感じがありました。生きている写真とは、現場の感覚がそのまま伝わってくるものだと感じました。

毎年写真展を開催していますが、会員の皆さんはそれに合わせて作品を制作しています。目指すべき展示会があることで目標を意識して上達しているのです。ある会員さんからは「毎年テーマを決めて、そのテーマに沿った作品を撮影しています。その中からひとつを選ぶのですが同じテーマの中でも作品の内容は違いますから写真は楽しいのです」という意見がありました。

また年に一度はクラブとして写真撮影会に出掛けていますが、同じ場所、同じテーマでも仕上がりは全て違いますから、それが写真の不思議です。撮影者の見方が違う、感じ方が違う、人生の背景が違うなどの要因があると思いますが、そんな全てを包み込んで作品は完成していきます。

会場では会員さんがもう次回に向けての話し合いをしていました。他人の作品を見て自分の作品を追求する姿勢があります。皆さんの作品から自然の美しさと雄大なその営みを教えてもらいました。次回も期待しています。対応してくれた皆さんに感謝しています。