沿岸部の市町村を訪ね、順に宮古市、山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、気仙沼市に入りました。
言葉で表現できない状況がそこにありました。全く何もない、瓦礫の山だけがそこに存在しているという現代の日本では信じられない光景でした。辛うじて道路が通れるように瓦礫を撤去してくれているので現地に入れましたが、山積みされた瓦礫はどのように処理するのか方法が分らない程でした。
そして想像を遥かに上回っているため、作業に素人が参加するのは限界があることを知りました。工事や解体の専門家でないと対応できません。そして医師や看護士、カウンセラーなどの有資格者も必要だと感じました。
戦争の後の町の姿は知りませんが、同じような状態にあると思います。何もないところから始めなければならないことの悲しみ、辛さというものを感じました。山田病院に入りましたが、そこでは希望がないことが苦しいことを感じました。そして少しずつ形になるのが感じられたら、それが希望になり立ち上がる勇気が湧いてくることを知りました。人は何もないところでは絶望を感じる以外にないのです。しかし少しずつ動き出すと希望を感じてくれます。自分から能動的に希望が掴むことが困難な状況です。県外からの支援、政府の対応などがひとつの希望になるのです。直接の支援だけが支援ではありません。義捐金、世界文化遺産を訪れること。関心を持つこと。これらのことが希望になるのです。
専門家でない人が、直接、被災者の皆さんと話をしても、余り役に立たないような気がします。遠くからでもできることがあれば行動に移すこと。それが復興支援、希望の光となるのです。
瓦礫だけで家屋がない、そして人がいない町がどれだけ空虚で寂しいものかを感じました。笑い声がない、笑顔がない、そんな町でいてはならないのです。早く笑顔を取り戻せるように、何が出来るのか分りませんが、その気持ちを持っておきたいものです。
言葉はいりません。この光景に出会った時に交わす言葉はないのです。言葉に発すると、それは被災していない立場の人が言う言葉になります。責任を持つためには言葉ではなくて、何かの形で支援に関わることです。声は届く必要はないのです。声なき声を届けること、それは気持ちを届けることに他なりません。
これから何十年かかるのでしょうか。災害に強くて安全なまちづくり。笑顔の取り戻した明るいまち。それを実現させるのは容易ではありません。しかし東北は蘇えります。そうでなければ日本は復興しないのです。そして世界が日本を見ています。日本の底力を発揮して、復興を信じた取り組みをしなければならないのです。
主のいない役場。最後まで津波からの避難を呼びかけた女性のいた建築物。そして14時46分の時を刻んだJR駅舎内の止まった時計。決壊した堤防。海水に浸かって枯れ始めている松の木。これらには言葉も音もありません。止まったままという表現か相応しい状態にあります。音もなく、ややもするとモノトーンのように見えました。色の消えた町がそこにあります。そして、色をつけていく作業が始まっています。瓦礫撤去、応援に入っている皆さん、営業を開始しているコンビニエンスストアなどには、元の色がつき始めています。白黒をカラーにする。そこからまちは再生していきます。早くそんな状態になって欲しい。それだけを祈りました。
そして道路には、多くの勇気づけられる言葉がありました。
がんばろう日本。がんばろう東北。がんばろう岩手県。がんばろう釜石市など、これらの言葉から勇気をもらえます。どうしても希望が持てない時、町中に翻っているこれらの旗が勇気のシンボルとなっています。多くの言葉はなくても、がんばろうの一言があれば、それを信じることができます。私達の小さな力では、非現実的な中で日常生活を過ごしている皆さんに出来ることはありませんが、気持ちだけは切らさないで贈り続けたいと思っています。