平成23年消防出初式が行われました。場所は和歌山城内の砂の丸広場でした。午前9時30分からの開始でしたが、少し早い目に会場入りしました。同級生の消防団員と会い、消防団について話を伺いました。消防団に入るには年齢は40歳までに入団しなければならず、定年は70歳になっています。若い人の入団が少ないのが悩みだそうです。
仕事は火災現場や津波警報発令時や台風時の対応などを行っています。一番厳しいのは台風の時だと聞きました。台風による暴風大雨警報が発令された時は、近隣の河川沿いの道路の入り口に立って、自動車が進入しないように見守ります。雨風の中、この仕事が辛いそうです。災害から人命を守る仕事の凄さが分かります。一般的には、警報が発生した時は自宅にいて外出しないでいることが大半ですが、消防団はそんな時に現場に出動し私達の安全を守ってくれているのです。安全を守るためには多くの人の力に頼っていますし、社会的なコスト負担があるのです。行政の仕事は利益を生み出さないで支出ばかりのように思いますが、日本国に暮らしていると安全を確保してくれていますから、共助の考え方で社会のコストは自分達で負担することは当然のことだと考えるべきです。
自分は行政機関の助けを受けていない、または受ける必要はないと思っていても、生活していることは既に行政からの支援を受けているのです。行政からの支援とは、税金を支払っている全員が社会コストを負担していることを示していますから、誰かの助けを受けていることになります。つまり税金を支払わないことは、誰かに社会コストの負担を依頼していることになっているのです。
このまちの安全を確保してくれている消防団の同級生たちと話をして、社会は自分達が支えていること、そして会ったことがない誰かも社会を支えていることを再確認しました。出初式とは、そんな見えないものを確認するために開催されているように思いました。参加したのは関係者約2,500人。一同に集まる機会は新年のこの式典だけですから、これだれ多くの人によって、和歌山市の安全と安心が支えられていることを理解させてくれます。
寒い中、式典に参加された皆さん、本当にご苦労様でした。安全を「見える化」させた式典でした。
日赤に入院したKさんをお見舞いしました。高齢になり内蔵機能が衰えたので検査するための入院でした。病院のベッドに寝ている姿は弱々しくて、元気な頃の姿はありませんでした。早く良くなって退院してくれることを祈りました。人生の晩年は健康と衰えとの戦いであることを知りました。自分の意思だけではどうにもならないことが、福祉なのです。福祉の対象は自分の意思では、自分の身体をどうしようもなくなった人を支える仕事です。ですから社会で支える必要かあるのです。医療と福祉は高齢社会の両輪で、どちらも欠かすことはできません。その福祉の分野に人材を育てることが社会として大切なことです。
さて付き添いをしているのがHさんです。遠く紀の川市から毎日、看病のため付き添いに日赤にきています。心の清らかな女性で、「私の今の幸せは、おじさんが授けてくれたものですから」と言って看病を続けているのです。その言葉の意味が分からなかったのですが、病室を後にしてからその理由を聞いて驚きました。
KさんとHさんとの関係を知らなかったのですが、素晴らしい関係だったのです。Kさんは80歳代後半、Hさんは50歳代で年の差は親子ほどです。
私がもの心のつくずっと以前、幸せな家庭と仕事を築いていたKさん夫婦には子どもがいませんでした。Kさんとの友人のHさんのお母さんは、ご主人を病気で亡くしました。Hさんのお母さんと小さなHさんは二人で暮らすことになりましたが、当時は日本全体が貧しい時代で、今ほど女性に仕事はありませんでした。小さい子どもと二人では経済的に生活が成り立たないことをお母さんは感じていました。そんな時、Hさんのお母さんに再婚の話が持ち上がりました。まだ若かったHさんのお母さんは、もし新しい夫との間に子どもが生まれたら、この子の居場所がなくなると心配しました。
そこで子どもが欲しいのに子宝に恵まれなかったKさんに相談したのです。「Hさんを養子として迎えて欲しい」と。子どもが欲しかったKさんは、友人の子どもであり優しいHさんを迎え入れることを歓迎しました。
当時幼稚園児だったHさんはKさんのところに行きました。そして幼稚園から小学校低学年までの4年間をKさんの子どもとして暮らしたのです。ところがその生活は4年間だけだったのです。
理由はHさんのお母さんに子どもが生まれなくて、4年後に引き取られたのです。その時の両者の心を思うと、悲しくて寂しくて適切な言葉がありません。どんな気持ちでKさんの自宅を後にして別れたのでしょうか。そうしてHさんはHさんとして大人になりました。あれから50年近くが経過しています。現役生活を終えて二人の生活をしていたKさんご夫婦は二人とも80歳代後半の年齢に達しています。奥さんは認知が入り、Kさんもすっかり衰えました。子どものいない二人の面倒を見てくれる人はいないのです。
そんな中の入院でした。身寄りのないKさんに付き添っているのがHさんなのです。幼稚園児時代の4年間、育ててくれたKさんを自分の父親のように看病しています。病室で拝見していると、実の父親のように接していました。
毎日、紀の川市から日赤に通うのは簡単なことではありません。しかし小さい時に受けてご恩を今、返しているのです。
「私の今の幸せは、おじさんが授けてくれたものですから」の言葉の意味はそんな深い意味を持っていたのです。恐らく苦労の連続の末掴んだ幸せだと思いますが、その基礎を作ってくれたのがKさんご夫婦だったことを決して忘れていないのです。勿論、入院したから付き添いを始めたのではありません。ずっと自分の父親と母親のように接していたことを知っています。そしてHさんには今、4人の両親がいることになります。小さい頃、苦労をしたことが、結果として4人の素晴らしい両親を与えてくれたのです。これは神様のプレゼントです。介護や看病のことを不満に思うどころか、感謝して対応している気持ちが分かります。
冬の日赤で繰り広げられている神様の贈り物のような実話です。寒い季節が暖かく染まり幸せな気持ちになりました。こんなことがあるから毎日が素晴らしいのです。私は毎日のようにお会いさせてもらっている皆さんに感謝しています。皆さんのドラマを受け取らせてもらっているからです。そして私にできるお返しは、このままだったら埋もれてしまうドラマを、多くの皆さんに伝えることです。人生の場らしいドラマを待っている人は多いのです。
KさんとHさんのドラマは冬の病室に相応しい暖かいものです。冬は春につながっています。春には退院して、ドラマの第二章を誕生させてくれそうです。
お世話になっている方の通夜式に参列させていただきました。悲しい出来事は突然に訪れます。心が暖かい冬もあれば冷たい冬もあります。写真の微笑のように安らかにお眠り下さい。心からご冥福をお祈りしています。